無限旋律

wagner_tristan_bohm.jpeg菊地成孔+大谷能生の「東京大学のアルバート・アイラー」を読み始めた。すこぶる面白い。菊地は東大教養学部での講義依頼の経緯を前書きに認めているが、そこから面白いのだからたまらない。菊地はいう。

・・・何にせよ僕は、これは手の込んだ冗談か(僕の世代には「〈どっきりカメラ〉かと思った。」というクリシェがあるのだが、このクリシェも絶滅するだろうから敢えてここに記しておいた)僕の膨大な財産の一部を掠め取ろうとする悪質なキャッチセールスの類で、原罪意識がなかなか消えない上に高卒である僕にそんな依頼が来るなんて、火星でもない限り絶対ありっこないね。と考え、しばらく何事もなく普通に暮らしていたら、今度は電話がかかってきて「菊地さん。例の非常勤講師の件、どうしますか?」と言うので、誰かと思えば、その男はこのゼミの成立に最も尽力してくれた、と書けばまるで美談のようだが、どう安く見積もっても「暗躍した」と書く以外にない闇の功労者であり、従ってここには絶対に身分も名前も一切書くことができない田口寛之という青年からで、僕は「これはマジなのか田口」と電話口でマフィア口調になり、「いやいやいやいや。何をおっしゃいますか。またまたまた。マジですよ。お願いします本当に。あのう・・・や・・・り・・・ます・・・よね?」と言われ、「分かった。やる」と、最後まで完璧なマフィア口調のまま電話を切り、落としたトーストにしばらく目をやり、バターを塗った面が下になっているのを確認してから、静かに涙を拭き、ジャズ・アカデミズム仕事の相方である大谷能生に電話した。・・・

何と心地良い節をもつ文章なのか・・・。一文でこれが綴られているのである。大学生相手の就職講座において、文章を書く際に最も悪い例として示している、「簡潔に、そして短い文章で具体的に」というものを完璧に無視した正反対の書き方。どこかの文豪みたい。どういうわけかこれが実にツボにはまる(僕はこういう書き方がとても好き)。

音楽分野だけでない、その博学博識ぶりは彼の講義をまとめた書籍を読めば一目瞭然。「高卒である僕にそんな依頼が来るなんて」と彼は宣うが、謙遜以外の何ものでもあるまい。ともかく高度でありながら的確な単語を並べて、多少専門的知識を有したものには極めてわかりやすいであろう授業を展開するのだから恐れ入る。彼のこの前書きを読みながら、この感覚、この毒を浴びるような感覚、どこかで味わったなといろいろと思考を巡らしてみてハタと気がついた。そう、無限旋律。途切れることのないメロディ。ワーグナーの長大な楽劇を聴く、それも映像なしで聴く、そんな感覚なのである。ゆえに、大変な集中力を要する。おそらく、講義の現場で実際に提示される音を聴き、しかも板書や彼らの姿を見ながらの話だったら、全く違った印象を持ったかもしれないけれど(ワーグナーの楽劇を観るのと同じように)。

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」第3幕
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(テノール)
マルッティ・タルヴェラ(バス)
ビルギット・ニルソン(ソプラノ)
クリスタ・ルートヴィヒ(メゾソプラノ)
ペーター・シュライアー(テノール)ほか
カール・ベーム指揮バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団(1966.7Live)

あえて、第3幕のみ。このとろけるような官能の音楽を聴くことは一種の特別な儀式だ。だから、そう頻繁には聴けない。若い頃と違ってそういうエネルギーを費やす時間もエネルギーも持ち合わせないから。前奏曲から「愛の死」に至る70分強は、他の一切合切をシャットアウトして唯一人孤独に聴くのに適する。舞台で「トリスタン」全幕を他の聴衆と一緒に体感するのもいいが、こうやって音盤でひとり静かに耽るのもまたよし。東大の講義は生で受講してみたかったが、こうやって書籍で読むのもまたよし。それと同じような感じ。

ベーム&バイロイト祝祭管のこの名盤についてはあえて何も言うことない。


4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
菊池さんと大谷さんに博識ぶりにすっかり感化されています。
時代の的確、的を得た鋭い指摘は、音楽のみならず、我が子の教育にさえも参考になることさえあります。
・・・・・・菊池:あと、鈴木さんの回に俺の発言として少し加筆したんだけど、この本で意外と言い切っていないのは、「ずれ」までは指摘しているんだけど、「ずれて戻れる力」についてはあんまり言及していない。そのことを、缶蹴りを譬えに出して補足している。
 要するに缶蹴りが行われて、缶蹴りが長時間化すると、ちょっと悪い子というか器用なガキは、家に一瞬帰って、家でジュース飲んでテレビ見て、また缶蹴りに合流したりするんだよね。で、その「力」のあり方というかさ。ある集団の向かっていく方向から、一方的にチャラッと外れて、知らんぷりして最終的にまた元に戻っているという「往復する力」のあり方。これ、名前がないから、「悪い子の力」というふうに呼んでいるんだけど。
 少なくともジャズ史の駆動というのは、ビーバップにおいてはドミナント・モーションを譜面に書いているよりいっぱいやるっていうことで、つまり、一時的に飛んでいる。だけど、モーションするから、戻ってくるわけじゃない。行きっ放しになったら、それは悪い子じゃなくて、困った子、変わった子になっちゃう(笑)。「悪い子」というのはそういうんじゃなくて、ルールは把握しているんだけど、そのルールからあえて外れて、また戻るんだという。そういう力が大切で、そのルード・ボーイの力によって、少なくともジャズは駆動しているんだよね。
 スウィング・ジャズ期においては、調性にまず「ブルーノート」というのを入れて、また調性に戻るという形を持っていた。さらにモダン・ジャズでは、爆発的にドミナント・モーションをやって、飛んでは戻り、飛んでは戻りした。それからモード・ジャズ時代になったら、モード・チェンジという形で外れて、また元に戻ってくという力があった。それが、フリー・ジャズになってからはなくなっちゃって、「戻る力」があるとしたら、テーマからテーマに戻るということになる。だからフリー・ジャズというのは、ある意味、悪っぽくなくて、戻るところ、集合地点が決まっているわけだ(笑)。こうなったら戻る、ということが決定している音楽だから。キ××イがさわいで帰るときだけ一緒に帰る。みたいな、だから悪くない(笑)。
 今、ヒップホップ以降―――ジャズもそうなんだけど―――外れるのはタイムモジュレーション、もうタイムしかなくなっている。ずれて戻れる力が要るんだけど、今はその力が失調しているんじゃないかなという気が・・・・・・。
大谷:ずれて戻ってくる力。
菊池:あとファッション・ショーも、2010年に初めてミッソーニが、モデルが全員、音楽にピッタリ合わせるという演出をしたんだよ。
大谷:ザッ、ザッ、ザッ、ザッて。
菊池:やっぱり異様だよね。そこから感じるのは、やっぱりミッソーニはミラノですけど、イタリア・ファシズムですよね(笑)。すごい怖い顔して、ズンキン、ズンキン、ズンキンというのにぴったり合わせて、ザッ、ザッ、ザッ・・・・・・二番手も三番手もランウェイ長いから、五人ぐらいになると、全員がガーッと進むわけ。だから、まったくファッション・ショーに見えなくて、きれいな服を着た軍隊の行進に見えるんだよね。
 若いモデルは、音にピッタリ合わせることと外すことの両方ができるんだよ。以前のモデルは、自分がいちばんきれいに歩ける、自分のテンポで歩けばよかった。ダンスや行進みたいにバッチリ合わせるのと、あえて外していくのと、両方のスキルを兼ね備えることがモデルのスキルに入ったころには、ハイ・モード界自体がもう沈んできていた。そういうことにも、この本は触れているというところがあるね、という。まあ、日々苦しいという人にとっては、ミッソーニどころじゃねえ、という話なんだけどさ(笑)。・・・・・・
「アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界」〈菊地成孔と大谷能生による後書き〉より360~362ページ 
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC2-MJ%E6%B2%A1%E5%BE%8C%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E8%8F%8A%E5%9C%B0-%E6%88%90%E5%AD%94/dp/416372060X/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1288304978&sr=1-2
この本もお薦めです。ぜひ続けて読んでみてください。
それと、12月13日に行われる「武満徹トリビュート~映画音楽を中心に~」
http://www.bunkamura.co.jp/orchard/lineup/shosai_10_takemitsu.html
は面白そうですね。私は遠方のため行けませんが・・・。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>時代の的確、的を得た鋭い指摘は、音楽のみならず、我が子の教育にさえも参考になることさえあります。
そうなんでしょうね。菊地成孔という人は観察眼が抜群で(鋭いゆえに何でもキャッチしてしまって、裏返せばセンシティブだから神経症にもなってしまう)、しかもそれを的確な言葉にして表現する(まさに記号化)ことが抜群に上手いですね。僕は彼の音楽を聴いたことがないのですが、いよいよ聴いてみたくなりました。それと、ジャズ。自分の中途半端な知識を一回ゼロに戻して、1から勉強したくなります。そんな時間ないですが・・・(笑)。ご紹介の、オーチャードでのコンサートも面白そうですね。残念ながら僕も行けませんが。
ところで、おまけの映像。
先日稲門祭を訪れたとき、ちょうどタモリのこの舞台の直前でした。もう少し(30分くらい?)待っていればこのステージを直接見ることができたのですが、用事があり触れられなかったです。おっしゃるように「ずれて戻る力」ですね。そう考えると、ギャグとジャズって音も似てますが、共通項あるんでしょうかね?

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » カール・ベームはやっぱりライブの人だ

[…] ドビュッシーの歌劇「ペレアスとメリザンド」は、フランス語独特の節回しと作曲家特有の官能性を秘めた音楽が絡み、極限の静けさの中にワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」以上のエロスの芳香を漂わす(こちらはワーグナーの呪縛を完全に振り払った)。 シェーンベルクが同じ頃に同じ戯曲を題材にした作った交響詩は、まだまだワーグナーやマーラーの影響下にあり、「浄夜」や「グレの歌」ともども大変に聴き易い。こちらも極めて官能的な音楽だが、ドビュッシーの方法とは真逆。大管弦楽を使って聴く者を確かに翻弄する。なるほど、地域性というか言語の違いというか、そのあたりも突っ込んで研究すると面白いかも。僕は長い間ドイツ音楽至上派だったからほんの最近までドビュッシーは眼中になかった。そのことが今となっては随分損をしたと後悔。やっぱり勝手な「思い込み」はいかん。 […]

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