モード・ジャズが一体どういうものなのか、初めてマイルスに触れたとき、ジャケットの解説を丁寧に読んでみても、語彙不足と同時に、音楽的専門知識をきちんと持ち合わせなかったせいで全く理解できなかった。それについては基本的に今でも変わらないが、先日来菊地成孔氏の書籍と睨めっこしていることが功を奏してか、少しずつではあるが概念的にはわかるようになってきた(気がする)。僕の場合、昔から本の中に登場する音楽や音源を即この耳で確認しないと気が済まないという癖がある。今のようにインターネットがまだなかった時代は音盤を手に入れない限り易々とは聴けなかった。ましてや湯水のようにお金があるわけでなく、レコード屋CDを順番に片っ端から買うわけにもいかなかった。今は便利だ。気になったらYoutubeで検索するなり、他のサイトで情報を得るなり、どんなものでもすぐ手に入れることができるから。だからかどうか、音楽を聴くという行為が割合「軽く」なった。手軽になったのではなく、軽薄になった。かつて1枚1枚を大事にして、じっくり繰り返し聴いていたあの頃が懐かしい。
それにしても30年前のあの頃に買った音盤にはいろいろな思い出が詰まっている。ジャケットもLPレコードの匂いも、すべてが過去の記憶と直線でつながる。
初めてマイルス・デイヴィスの音盤を買ったのは高校生の時。”Kind of Blue”。クラシック音楽一辺倒だった僕にはすぐ理解できたとは言い難い。ドビュッシーすらわからなかった時代だから。でも、わからないなりにやっぱり繰り返し聴いた。なけなしのお金を出して購入した大事なレコードだったから。そして、2枚目も手に入れた。”Milestones”。理由は判らなかったが、”Kind of Blue”よりはなぜかとっつきやすかった。
Personnel
Miles Davis(tp, flh, p)
Julian “Cannonball” Adderley(as)
John Coltrane(ts)
Red Garland(p)
Paul Chambers(b)
“Philly” Joe Jones(ds)
「マイルストーン」はマイルスがモード・ジャズに切り替える、ちょうどその過渡期の録音で、アルバム全体としてコーダルとモーダルが混在している。一方、”Kind of Blue”はモード・ジャズの金字塔。なるほど、そういうことか。ジャズ初心者の僕には一般的な和声進行による音楽の方ががわかりやすかったということだ(長いことドビュッシーが苦手だったのも同じ理由からかな・・・)。
ところで、この録音を機に目指す方向性の違いからRed Garlandが脱退し、いよいよBill Evansが加入、マイルスのバンドは黄金期に突入していくのだが、そういうゴタゴタのある時期ほどなぜか音楽は活気に満ち溢れる。不思議なものである。
※一気に冬到来の寒さ。台風も上陸するというのだからおかしな気候だ・・・。
おはようございます。
昨日ご紹介しました菊地成孔氏の言葉と、以前ご紹介しましたハイドシェック及びS・クイケンの名言を、コラージュしてみたくなりました。ちょっと試しにやってみます(笑)。
・・・・・・要するに缶蹴りが行われて、缶蹴りが長時間化すると、ちょっと悪い子というか器用なガキは、家に一瞬帰って、家でジュース飲んでテレビ見て、また缶蹴りに合流したりするんだよね。で、その「力」のあり方というかさ。ある集団の向かっていく方向から、一方的にチャラッと外れて、知らんぷりして最終的にまた元に戻っているという「往復する力」のあり方。これ、名前がないから、「悪い子の力」というふうに呼んでいるんだけど。
少なくともジャズ史の駆動というのは、ビーバップにおいてはドミナント・モーションを譜面に書いているよりいっぱいやるっていうことで、つまり、一時的に飛んでいる。だけど、モーションするから、戻ってくるわけじゃない。行きっ放しになったら、それは悪い子じゃなくて、困った子、変わった子になっちゃう(笑)。「悪い子」というのはそういうんじゃなくて、ルールは把握しているんだけど、そのルールからあえて外れて、また戻るんだという。そういう力が大切で、そのルード・ボーイの力によって、少なくともジャズは駆動しているんだよね。・・・・・・
http://classic.opus-3.net/blog/cat29/post-560/#comments
・・・・・・「規律の中の自由」というキャッチは、フランスの雑誌『ピアノ・マガジン』のハイドシェック特集号から取った。ハイドシェックは、6歳からコルトーの薫陶を受け、パリ音楽院卒業後もコルトーに師事している。『ピアノ・マガジン』の巻頭には、「海は月のリズムに忠実に満干をくり返す。大きな空間の中では自由だが、時間的には厳格な規則に従う。音楽も同じようにしなければならない。これは、コルトーが私に教えてくれたことだ」というハイドシェックの言葉が掲げられている。
ルバートはプラスマイナスゼロで、リズムの柱と柱の間では自由に飛翔するが、必ず元に戻ってくる。大きくテンポをゆらしながら全体の統一をとる極意は、コルトーからハイドシェックに受けつがれたものだ。・・・・・・青柳いづみこさんのサイトより
http://ondine-i.net/column/column117.html
・・・・・・こうして音楽の中にある「限定」があることこそが、私は好きなのです。最小限の音、そしてむしろ「最小限の自由度」が。それこそが「偉大な瞬間」で、小さなことのうちに大きな喜びがあるのです。確かストラヴィンスキーが小さな本「ミュージカル・ポニトニー」で、「限定がなければ自由もない」と述べています。これはストラヴィンスキーだけではなく、多くの人々が言っている一般的で哲学的な問題です。自由はとても重要だが、限定(制限)がなければ、その自由も楽しめるものにはならないのです。なぜなら、はじめにただ、楽しめるものを求めてしまうと、それはとても小さな領域に留まってしまい、その領域には自由がなくなってしまうのです。こうした自由と限定の素敵な緊張感が、ハイドンの音楽にはつねに強く働いているのです。モーツァルトはより叙情的で、より拡がりがありますが、ハイドンはそうではないのです。
私の気持ちは、ある面ではハイドンにより近いのです。私にはハイドンは積木で遊んでいる子供を想わせます。高い塔を組み上げてみたり、どこか一つの石が少しずれていても倒れたりはせず、多くのシンメトリーがあっても完全には均衡ではなく、人間的な小さなミスや小さな不均衡が組織化されていたりと、とても魅力的ではありませんか。・・・・・・以前S・クイケンがハイドンの音楽について語ったレコ芸のインタビュー記事より
こうやって三つの名言を並べてみると、改めて、ジャンルという登山のルートはいろいろあれど、音楽における真理の頂上はひとつなんだと実感します。
>ゴタゴタのある時期ほどなぜか音楽は活気に満ち溢れる。
これも、そうしたシチュエーションでの「規律の中の自由」「最小限の自由度」が、潜在的に奏者が持つ「ずれて戻れる力」といったパワーを、無意識のうちに喚起させるからなのではないでしょうか。
私は、初めて聴いた時から、モードという新たな「規律の中の自由」での「カインド・オブ・ブルー」のほうが、「マイルストーン」より好きでしたが、ジャズの本流を愛する人は、「マイルストーン」のほうがいいっていう人、けっこう多いですよね。後藤雅洋さんは自著「ジャズの名演 名盤」(講談社現代新書)の中で、「むしろ『マイルストーン』の方が僕は面白いと思う。メンバーに対する締めつけが『カインド・オブ・ブルー』ほどゆきとどいていないが、音楽的躍動感が確保されている。特にキャノンボール・アダレイの闊達なプレイに場が与えられているところを評価したい。」と書いておられ、これはこれで説得力のあるご指摘だと思いました。奏者の(上からの押し付けではなく、自主的な)「ずれて戻れる力」が発揮されているのは、「マイルストーン」ということですか。
>ジャズ初心者の僕には一般的な和声進行による音楽の方ががわかりやすかったということだ(長いことドビュッシーが苦手だったのも同じ理由からかな・・・)。
久しぶりに青柳いづみこさんの先程引用したサイトを読んでいて、ハイドシェックの演奏でドビュッシーの前奏曲集を、無性に聴きたくなりました。
>雅之様
こんにちは。
このコラージュは、なかなかイケテますね。
勉強になります。
おっしゃるように、「ジャンルという登山のルートはいろいろあれど、音楽における真理の頂上はひとつ」ということなんですね。これって、やっぱり18世紀前半の平均律の完成という事実が影響してるんでしょうかね?
後藤雅洋さんの書籍は未読ですが、「マイルストーン」に関する指摘はその通りだと僕も思います。「規律の中の自由」、「ずれて戻れる力」ですね。
それにしても菊池氏の言う「ずれて戻れる力」、「悪い子の力」っていう表現、いいなぁ、好きだなぁ。(笑)「悪い子」って悪くないんですね、そう考えると。
>ハイドシェックの演奏でドビュッシーの前奏曲集を、無性に聴きたくなりました。
ああ、素晴らしいですからね。いずれ全集を録音してもらいたいものです。
[…] ドビュッシーがJazzのイディオムに近いと観念的にわかっていたが、「海」を聴いていて、あるいは「前奏曲集」を聴いて、そのことがようやく実感できた。何より一般的な「型」にはまらないということ。つまり、自由だということ。マイルスにせよコルトレーンにせよ、発想がともかく「自由」だとあらためて感じた。 […]