年齢を重ねるにつれ、モーツァルトが恋しくなる機会が増える。実に不思議だ。秋が深まると、かつて幾度も聴いた、否、聴き飽きたと言っても言い過ぎでないような作品がとても身に沁みる。
単純だけれど奥深い、あるいは明快だけれど重みのある代物とでも言おうか。底なしの美と言っても良いだろう、最後は言葉に表せない満足感が身体の隅から隅にわたって走るのである。疾走する悲しみならぬ、疾風の如くの喜び。
モーツァルトのソナタについてはこれまでいくつもの演奏を聴いてきた。名演と言われるものも駄演とレッテルの貼られたものも、たぶん、一通りは聴いたと思う。中で、意外かもしれないが、僕のイチオシは、ダニエル・バレンボイムのもの。リリース当初から僕はこのモーツァルトに惹かれた。テンポは完璧、造形も見事、どの瞬間もモーツァルトの魂が宿る、演奏者を感じさせない(音楽しか感じることのない)極めて美しい音色。
1788年1月3日に完成されたアレグロとアンダンテに、その1年半前(1786年6月10日)に完成していたロンドを一つにしてソナタと称したK.533/494の、特に沈思黙考する第2楽章アンダンテがあまりに透明で、あまりに美しく、そしてあまりに哀しくて、その表現だけでもバレンボイムは天才だと思う由。
吉田秀和さんはかく語る。
「バレンボイムのモーツァルト」の最大の特徴は、それが「自然体の演奏」だということではあるまいか。モーツァルト音楽そのものが、もともと、音楽の泉から清水がこんこんと湧き出し、自然に流れてゆくような趣きをもつことが多いように、モーツァルトをひくバレンボイムも、やたらと細部に凝ったり、無理や誇張を加えたりしないで、ごく自然にやっている。
これほどわかりやすい、的を射た表現はない。しかも、吉田さんは次のように付け加える、
「自然体」というのは、はじめから一定の枠を用意して、その中で万事を料理しようというのではなく、一つ一つの曲の変化に柔軟に、自由についてゆく用意が出来ているということである。
完全に音楽と、否、モーツァルトの魂と一体とならないと為せない業。
間違いなく後世に残すべきモーツァルトの一つだと僕は思う。
モーツァルト:
・ピアノ・ソナタ第18番ヘ長調K.533/494
・ピアノ・ソナタ第15番ハ長調K.545
・ピアノ・ソナタ第16番変ロ長調K.570
・ピアノ・ソナタ第17番ニ長調K.576
ダニエル・バレンボイム(ピアノ)(1985.8.19録音)
1788年6月26日完成。K.545の、単なるソナチネとは思えぬ深み。同日に完成した変ホ長調交響曲と同じく、内側から光を放つ小宇宙の如くの音響は、名演奏を得てはじめてその存在意義を発揮する。バレンボイムの名演の一つ。
そして、経済的に一層逼迫した状況にあった1789年2月に作曲されたK.570の、囁くような、しかし、時に激昂するかのような曲想をもつ第1楽章アレグロの豊かな情感と、第2楽章にある慈しみは、モーツァルトの良心の発露であるまいか。
最後のソナタK.576(1789年7月作曲)には、もはや音楽を超えた永遠しかない(何と言っても心から弾ける終楽章アレグレットの愉悦!)。
バレンボイムは語る。
偉大な芸術作品はみな、二つの顔をもっていると僕は思っている。一つはそれが属する時代に向けての顔、もう一つは永遠に向けての顔。
~アラ・グゼリミアン編/中野真紀子訳「バレンボイム/サイード『音楽と社会』」(みすず書房)P69
その上で彼は、「永遠の側面」については、演奏者は発見するという気持ちで演奏しなければならないと言うのだ。彼のモーツァルトはやっぱり永遠だ。
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