秋が深まってくると不思議にショパンの音楽が恋しくなる。ブラームスでも良いのだが、こちらはどちらかというと晩秋向き。9月終わりから10月にかけての季節にはショパンの愁いを秘めた旋律がとても似合う。特に今日のような秋雨煙る日には一層ピアノの詩人の音楽が相応しい。
昨日の新月をきっかけに向こう1ヶ月は情報収集に専念しようと心がける。20年来の友と10数年ぶりに再会し、杯を酌み交わす。あっという間に5時間余が経過したが、お互い歳はとれど何も変わっていないことに気づく。時空を超越するかの如く昔話に花が咲き、記憶の彼方に追いやっていた様々な事柄が嘘のように湧いて出てくる。当時は僕も20代前半、一方の彼らは20歳そこそこ。時には罵声を浴びせたり、時には泣きながら抱擁しあったり、今から考えると古き良き泡沫の時代。日本中が狂喜乱舞し、国民の誰もが来るべき幸福な未来を想像しながら毎日を楽しく過ごしていた一瞬。
過去は振り返るまい。過去と比較するまい。そして他人と比較するなかれ。あくまで自分自身を比較基準にし、今を一生懸命に楽しめばいいのだと。
状況や立場は変われど、人間教育の重要性を意識し、大なり小なり社会に何かを訴えかけ、変えたいと思っている気持ちはみな同じ。全く別の道を歩んでいる3人だが、思う結論は同じということだ。
ショパン:ピアノ・ソナタ全集
シプリアン・カツァリス(ピアノ)
この音盤の希少価値は、珍しくもショパン10代の習作である第1番ソナタハ短調作品4を収めているところ。学生時代、ショパンは自らの天才を封印し、いわゆる古典形式を習得するために苦労し、その枠の中でともかく教授から評価を受けるような作品を創造しようと努力したという。しかしながら、円熟時代のソナタ第2番変ロ短調作品35「葬送」、ソナタ第3番ロ短調作品58を聴けば自ずとわかるように、彼の類稀な音楽的才能が既成の枠の中に収まるはずもなく、無理やり「決められた型」に押し込めてしまおうとしたことが拙い我が耳ながら推測できる。とはいえ、天才ショパンの筆は、ティーンエイジャーであろうとも、ショパンに違いなく、全く評価に値しないというレッテルを貼るような駄作では決してない。記念すべき最初のソナタが、そういう意味では霊感に乏しく独創性も少ない価値のない作品として世の中からは忘れられてしまっていることが僕には残念でならない。後の2つの傑作同様、このカツァリスの奏でる名演奏を聴けば、その価値も十分に理解できようものなのに・・・。特に、第3楽章ラルゲットの持つ物思いに耽るような優しい調べは、ベートーヴェンの第2交響曲のラルゲットや「悲愴」ソナタの第2楽章の雰囲気にも通じる、ショパン自身の後年のノクターンの楽想に極めて似た印象を与える秀作だと僕は思うのだ。
相変わらずカツァリスは超絶技巧。このCDは廃盤になっているようだが、とても残念。
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