エレーヌ・グリモーのベートーヴェン作品101(2007.7録音)ほかを聴いて思ふ

おそらく直前に悟りを得たであろうベートーヴェンの、意味深な手紙。
作品101のソナタを捧げたドロテア・フォン・エルトマン男爵夫人宛。日付は、1817年2月23日。

失礼と思われるようなことが、わたしにきっとあったでしょうから、そんな人間と誤解なさったことがしばしばあったに違いありません。わたしの流儀が今日ほどに認められていなかった以前の、わたしを囲んでいた状況に起因するところが多かったとわたしは思います。福音書とは全く違ったやり方で何とかやっていかざるを得なかった、招かれざる使徒の解釈というものをあなたは御存知でしょう。だが、わたしをその一人に数えたくありません。あなたに、と思いながら作曲してきましたこの作品を、さあお受けになって下さい、それはまた、あなたの芸術的才能と人柄にわたしがどんなに傾倒しているかの一つの左証でもあります。最近はあなたがチェルニーの所で演奏されるのを聴けないでおりますが、それはわたしの病気のせいです。
小松雄一郎編訳「新編ベートーヴェンの手紙(下)」(岩波文庫)P41-42

いよいよ外界の音を完全に失くしつつあるベートーヴェンにあって、作曲活動は一層精神的なものになり、作品は後期の扉を叩く、より内省的な音楽へと移行してゆく。たぶん、彼の意図には、インド哲学にはまりながらキリスト教というものを否定せざるを得ない精神の向上を、誰にも理解してもらえないという葛藤があったものと思われる。わかってくれるのは、あなただけだという思いが、手紙から、そして音楽から如実に伝わってくる。

私は笑うのが好きだ。何時間も、意味もなく、からだ全体で笑う。反対に、泣くのはあまり得意ではない。それを残念に思う。私が内側に抱える悲しみが、ときには私を足で蹴飛ばすことがある。巨大で強力な悲しみが胸のなかにのぼってくるのを感じ、それが私の思考すべてを支配していくのがわかる。
エレーヌ・グリモー著/北代美和子訳「野生のしらべ」(ランダムハウス講談社)P297

何だかベートーヴェンの悲しみと同期する。エレーヌ・グリモーの作品101。
音は終始煌びやかだ。同時にまた、どこか燻ぶった滋味すら感じさせる絶品。第1楽章アレグレット,マ・ノン・トロッポ冒頭から自信に溢れる音。続く第2楽章ヴィヴァーチェ・アラ・マルシアの慟哭。この激しさは、エレーヌの強靭な内面を感じさせるものだ。そして、短い第3楽章アダージョ,マ・ノン・トロッポ,コン・アッフェートは、浪漫派詩人エレーヌの音の魔法。そこからアタッカで続く終楽章アレグロは、涙の解放。エレーヌが笑う。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」(2006.12録音)
・ピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101(2007.7録音)
エレーヌ・グリモー(ピアノ)
ウラディーミル・ユロフスキ指揮シュターツカペレ・ドレスデン

極めつけは「皇帝」(隅から隅まで理想的)!初めて聴いたとき、グレン・グールドほどではないが、第1楽章アレグロ冒頭の、(彼に倣って)ややルバート気味に奏するカデンツァを聴いて、僕は彼女の天才を確信した。

グレン・グールドについては、本棚をまるごとひとついっぱいにするほど多くのことが書かれてきた。なにひとつ見逃されてはいない。その狂気、眠れぬ夜、子どものようなほほえみ、不安、自然の力で裏打ちされたその脆弱さ、震え、毅然と立ちあがり、攻撃し、勝利するその手、グレコ風の手。人は限界へと駆り立てられたその肉体を語り、その失敗を、成功を、一瞬ごとの闘争—自分自身に対する闘争でもあった—を数えあげた。この断固とした注意力。冒された危険、受け入れられた危険、回避不能の危険。音楽の暴力が強い魂に刻み込む重力。この孤独、街から街、国から国、友もなく愛もなく、だが何千もの友、数多くの愛・・・かいま見た女たち・・・度を失った誇大妄想狂たち・・・ヒステリックな称讃者たち。病気。弟子たち。ライバルたち。いまにも出発しようとしている感覚。すべてから離れ、すべてを忘れ、自分自身を演奏しているという感覚。それから、速度、忘却、不安・・・立ち止まっている時間はない。息をする時間はない。プレストで、前進し、もっと速く、終着点がくる前に終着点に到達したいという欲望。自らを見て、自らを聴き、より濃密な音楽のなかで、自分自身の高みにまでのぼりつめたいといういらだち。音楽上の兄がいるという甘美な幻想を、私にあたえるものすべて。
~同上書P301-302

彼女はグールドのすべてを感じているようだ。
この、グールドに対する手放しの賞賛は、自らへの鼓舞となって戻ってくるのである。
出過ぎず、引っ込み過ぎず、シュターツカペレ・ドレスデンと対等でありながら一つに収斂されるピアノの妙。聴き飽きた協奏曲が、何と新鮮に響くことか!集中力が並大抵でない。そして、第2楽章アダージョ・ウン・ポコ・モッソの神聖な美しさ。アタッカで奏される終楽章アレグロの香気は他の追随を許さない。

音楽が私を解放した。
14歳のときの出来事だ。
もうみそっかすではなかった。
~同上書P123

2018年のエレーヌ・グリモー来日公演が、彼女の肩の故障が原因で中止になったことは実に残念なこと。

 

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8 COMMENTS

ヒロコ ナカタ

この記事でエレーヌ・グリモーというピアニストを初めて知り、このCDを聴きました。同時に、グールドのことが書いてあったので、グールドのベートーヴェンのピアノソナタ28番も聴いてみました。ベートーヴェンのドロテア・エルトマンへの献辞が美しいです。かつてエルトマン夫人が子どもを亡くした時、ベートーヴェンがやってきて、無言でピアノを演奏して帰っていった、それがどんなに慰めになったことかと、夫人が回想している文を読んだことがあります。ロマンロランもこのソナタに込めたベートーヴェンの思いに寄り添って、その優しさ、哀切、美しい思い出の回顧、ベートーヴェン最後の無邪気に興じる笑い声、等について書いていたような・・グールドは「月光」や「悲愴」や「熱情」のどこがよいのかわからない、などと言ったときき、それらの演奏はあまり感心しないのですが、28番は素晴らしく、ロマンロランの文章を彷彿とさせるような演奏だと思いました。グリモーさんは、グールドを音楽上の兄だと言っているのでしょうか。似ていますか? すみません。グールドのことをだらだらと書いてしまいました。何がいいたいのかわかりませんね。

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ヒロコ ナカタ

グリモーのベートーヴェンのピアノソナタ30番、31番、「皇帝」等を聴きました。とても美しい音で、堂々と輝かしい演奏だと思いました。気持ちが入るところは息遣いや声がもれたりするのが聞こえてきて、グールドに似ているな、と思いました。それにしてもなぜこうも完璧に弾けるのでしょうか。
 話は違いますが、グールドは「曲というものは作曲されたと同時に作曲家の手を離れて全ての人のものになる。その曲をどう表現しようが表現者の自由だ。」という意味のことを言っていると思うのですが、その一方で、「表現者は作曲家の代弁者であり、作曲家がその曲にどのような意味や感情を込めたのかを聴き手に伝えるのが演奏者の役割。」という人もいます。グリモーはやはりグールドに賛成派でしょうか。ついなぜかそのようなことを考えました。以前、聞いたCDの中で、グールドがベートーヴェンのピアノ協奏曲の1番が2番のある音を弱音で弾いていました。他のピアニストはみな、その音をフォルテで弾いていました。楽譜を調べたらベートーヴェンはフォルテを指定していました。でも弱音のグールドの演奏の方がずっと心に沁みる旋律になっていました。そのようなことはありますが、作曲家の人生と音楽について知った上で演奏するほうがより味わい深いものになるような気もしますし。またダラダラと書いてしまい、すみません。

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岡本 浩和

>ヒロコ ナカタ 様

グリモーに関する感想をありがとうございます。
グリモーの演奏は、グールドの影響を受けているとはいえ、思想的にはグールドほど翔んでいるわけではないように僕は思います(彼女の演奏はグールドの前者の言葉ではなく後者の言葉に近いでしょうか)。彼女も一時期コンサート・ドロップアウトを考えたほど聴衆の前での演奏に疲れ果てたことを告白していますが、人との様々な出逢いを通じて、その思いは封印し、現在も活動を続けています。

彼女は音楽を通じて、「幸せとは何か?」をずっと探し続けてきたようですね。昨年暮れに出版された書籍「幸せのレッスン」(春秋社)には次のようにあります。

そもそも、幸せに生きるとはいったいどういうことだろう?それは楽園を再発見すること、エデンの時間を再発見することだ。太陽と光がともにあるように、鳥や、石や、木々が楽園にあること—幸せとはこの完全な調和のことであり、愛に触れたときにオルフェが歌う音楽のことだ。天使の羽が私たちの魂に触れれば、私たちだってオルフェの歌を口ずさむことができる。この瞬間が訪れれば、そのあと幸せという調和を壊すものは何もない。幸せは、涙のように涸れてしまうのではなく、泉のように湧き出してくる。あらゆるものから、あらゆる瞬間から、誰にでもはっきりとわかるように、あらゆるものを潤しながら、それ自体の力でこんこんと湧き続ける。こうしてあなたを満たし続ける幸せは、何も消すことはない。だから苦悩や死だって幸せによって消されることはないのだが、幸せは、苦悩や死を、暗黒の混沌から救い出してくれる。幸せは、臨終の一息に苦しみの歯ぎしりやあえぎではなく、純粋で高貴な音を与えてくれる。幸せは、臨終のまなざしを意識朦朧や虚無ではなく、やさしさに満ちたほほえみで包んでくれる。幸せは、臨終の抱擁を永遠の別れを告げる悲痛な言葉ではなく、やさしく力強い無言の了解と喜びで彩ってくれる。幸せだけが、消えていこうとする命の灯に最高の輝きを与えることができるのだ。幸せとは神秘だ。けっして消えることがない神秘。喜びという名の輝きに包まれた恍惚。崇高な音楽のように、けっして言葉ではつかむことができないもの。
P226

グリモーにとって音楽をすることは「完全な調和の発見」を指すようですね。
この言葉を思い、彼女の演奏をあらためて聴くと、やさしさと喜びに満ちる瞬間が多々あることがよくわかります。

>作曲家の人生と音楽について知った上で演奏するほうがより味わい深いものになるような気もしますし。

同感です。
ちなみに、聴くときも作曲家や演奏家の人生を知った上で聴くと一層味わい深いものになりますよ。

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ヒロコ ナカタ

岡本 浩和 様
 エレーヌ・グリモーの演奏の神髄を知ることが出来る彼女の言葉のご紹介をありがとうございます。
「この瞬間が訪れれば、そのあと幸せという調和を壊すものは何もない。幸せは、涙のように涸れてしまうのではなく、泉のように湧き出してくる。あらゆるものから、あらゆる瞬間から、誰にでもはっきりとわかるように、あらゆるものを潤しながら、それ自体の力でこんこんと湧き続ける。こうしてあなたを満たし続ける幸せは、何も消すことはない。」そのような瞬間である「完全な調和の発見」がグリモーにとって音楽することである、ということに、とても感銘を受けました。本当にそのようなことがあるような気がしました。
 読んでいると、グールドの言葉が思い出されました。
“The purpose of art is not the release of a momentary ejection of adrenaline but is, rather, the guradual lifelong construction of a state of wonder and serenity.” 「芸術の目的は、アドレナリンの瞬間的な放出ではなく、むしろ、少しずつ一生をかけて、感嘆と清澄に満ちた心の状態を構築することである。」
 グリモーの「完全な調和」とグールドの「感嘆と清澄の状態」は、もしかしてちょっと似た状態なのでは?と思いました。

 「聴くときも作曲家や演奏家の人生を知った上で聴くと一層味わい深いものになりますよ。」とのご示唆、ありがとうございます。本当にその通りだと私も思うのです。私は子供の時、ベートーヴェンの伝記映画を見てからベートーヴェンがエヴァ―グリーンになり、どの音楽を聴いてもベートーヴェンの人柄や気持ちが感じられるような気がして愛好しているのですが、ラヴェルが「ベートーヴェンの音楽なんてたいしたものではない。ただ大衆が、作り上げられた楽聖の物語を伴奏にして聴くから感動的に聞こえるだけだ。」というような意味のことを言った、ということをどこかで読んでから少々心穏やかではなくなりました。ベートーヴェンについては白紙の状態の人が「運命」や「英雄」を聴いたらどんなことを思うのだろう、と。チャイコフスキーの人生をあまり知らなくても「悲愴」に感動できるので想像はできるのですが、もし「悲愴」を作曲した時の心持ちを知っていたら、それが感じられると思う演奏しか受け付けなくなるような、狭量な聴き手になってしまうような気もします。
 またまた意味薄弱な文を書いてしまい、申し訳ありません。ご迷惑かもしれないので、ご放念ください。

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岡本 浩和

>ヒロコ ナカタ 様

グールドの素晴らしい言葉をありがとうございます。
感性はグリモーに非常に近いですね。彼らの演奏の原点がその言葉に集約されているように思います。

ちなみに、ラヴェルのベートーヴェンにまつわる言葉ですが、僕は知りませんでした。
ドビュッシーをはじめとしてフランス近代の作曲家は堅牢な形式を持つドイツ音楽の否定から入っているでしょうから、彼の言葉は納得できます。しかし、第5にせよ「エロイカ」にせよ、ベートーヴェンのことを何も知らなかった少年の頃、初めて聴いたとき心底感動したことを今でも鮮明に覚えています。チャイコフスキーの「悲愴」も然り。もちろん僕がその時聴いたであろう演奏そのものの素晴らしさはあったと思いますが、作品自体の普遍性は変わらないものでしょうから、優れた作品は究極的には作曲家の意志を離れて永遠不滅になるのでしょう。その意味では、作曲家の人生を知る知らないに関わらず、「聴く力」さえ持っていれば十分享受できるものだろうと思うのです。

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ヒロコ ナカタ

岡本 浩和 様

「優れた作品は究極的には作曲家の意志を離れて永遠不滅になる。その意味では、作曲家の人生を知る知らないに関わらず、「聴く力」さえ持っていれば十分享受できるもの」ありがとうございました。もやもやが晴れました。そして、ロマン・ロランがベートーヴェンの作品101のピアノ・ソナタを分析して書いた文の中の記述を思い出しました。「大音楽家は、意識下のもっとも親密な暗示を記述する。彼の言語を学びさえすれば、諸君はそれを正確によみとるようになるだろう。」という言葉でした。

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