ヒリヤード・アンサンブルのデ・モンテ宗教的・世俗的歌曲集(1983.12録音)を聴いて思ふ

感覚にアクセスするというのは、いわば古い洋服を脱ぎ去って、赤裸々なありのままの自分を開示したときに、ようやく見える新鮮な状態の体感なのだろう。昔の人々の類稀なる知恵を思う。

思考の鎧を脱ぐのに最適なのは、中世、あるいはルネサンス期の音楽だ。
言葉に邪魔されず、意味に翻弄されず、ただ音に触れ、音楽を聴くという行為が、どれほど素晴らしいことなのか。

人はどうしても「意味」を求めてしまうもの。
しかし、何にせよ解釈は千差万別。裏を返せば、すべてに「意味」などないのである。

後期ルネサンス、フランドル楽派のフィリップ・デ・モンテ(1521-1603)。

フィリップ・デ・モンテ:宗教的・世俗的歌曲集
・8声のモテット「おお、優しく甘きものよ」
・6声のモテット「私の見逃してください、主よ」
・4声のマドリガーレ「優しく、愛しいかたよ」
・5声のシャンソン「小鳩のように」
・リュートのための編曲「小鳩のように」
・5声のシャンソン「女神ヴェニュス」
・6声のマドリガーレ「甘やかなまなざしが」
・ミサ曲「ラ・ドルチェ・ヴィスタ(甘やかなまなざしが)」
ヒリヤード・アンサンブル
デイヴィッド・ジャームズ(カウンターテナー)
ポール・エリオット(テノール)
レイ・ニクソン(テノール)
ポール・ヒリヤー(バス)
ケース・ブッケ・コンソート(1983.12.12-18録音)

(下手な)知識が真理の発見をいかに遅らせることか。
感覚を研ぎ澄ますことが大切だ。

長いあいだ闇に埋もれていた古代の知恵が思いもよらず発見される—これほど好奇心をそそられる物語はめったにない。こうした発見譚の典型的な筋書きは、何かを発見しようなどとは夢にも思っていなかった人物が、畑を耕しているときに古代の書字板を偶然掘り当てたり、洞窟の中で粘土製の壺につまづいたり、屋根裏部屋で埃だらけのランプや収納箱を発見する、というものだ。なんだ、こんながらくた、と放り捨てようとしたときに、この人物はふと躊躇する。この奇妙なしるしや記号のようなものは—あるいは金属に刻まれ、あるいは石に彫られ、あるいは硬くなった羊皮紙に記されているものは—いったい何だろう、ひょっとすると、このかび臭い代物にはちょっとした価値があるのかもしれないぞ、と。もちろん、この無知な発見者は、これらの不可解なしるしが失われた世界の声を体現していることを知る由もない。だが、もっと知識のある者なら、この遺物の真価に気づかずにはいないだろう—黄金や宝石よりはるかに貴重な知的財宝、古代の知恵と力の源泉であることに。そう、これは過去を呼び出し、現在を変え、未来への道を指し示す魔力を秘めた護符なのだ。
リチャード・E.ルーベンスタイン著/小沢千重子訳「中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ」(紀伊國屋書店)P17-18

それこそ「無知の知」というのだろうか。中世の、ルネサンス期の音楽も、果たして「過去を呼び出し、現在を変え、未来への道を指し示す魔力を秘めた護符」なのか。ヒリヤード・アンサンブルの歌は相変わらず美しさの極み。信仰と理性のバランスを取り戻すことが現代の課題のひとつだろう。

 

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