イェルク・デームスのシューマン交響的練習曲ほかを聴いて思ふ

音楽は、すぐに理解できるけれども他の言語にして説明できないという矛盾した特性をもつ唯一の言語なので、音楽を創り出す者は神のごとき存在であり、音楽そのものは人知の最大の謎なのだ。
(クロード・レヴィ=ストロース)

仄暗い熱情。
暗澹たる不安定さ、ロベルト・シューマンの作品は、彼の移ろいやすい感情を直接に映す。変幻自在の音楽、千変万化の音調、中でも交響的練習曲は屈指の名作。シューマンにあって音楽は健康的であってはならないのだ。誰のどんな演奏で聴いても、作品に通底する天才的ひらめきを享受できるという素晴らしさ。
そして、余裕のある遊びの精神。内から湧き出るインスピレーションに沿って音楽は自由に躍動する。フロレスタン的でもあり、またオイゼビウス的でもある変奏曲の、中庸の神髄。

何という静けさ、また何という激しさ。イェルク・デームスは命を懸ける。極めつけの集中力で奏される音楽は、どの瞬間も自然体であり、それでいて同時に神々しい。

上行と下行、飛翔と憧れ、飛躍と反復、めくるめく熱狂と決然たる意志、といったさまざまな要素の混在、ときにフロレスタンであり、ときにオイゼビウスであるといったプロテウス的柔軟性は、現代においても、都会的な青年の気分の表現でありつづけるだろう。このような個人的なるもの、自己の内なるものへの関心と観察は、自我の重要な機能の一つである〈内省〉への関心に由来するものであり、もともとベートーヴェンの〈自我の音楽〉の延長線上に位置づけられる。これはまた、現代音楽における、極度の個人性・内省性に連なるものでもある。
福島章著「音楽と音楽家の精神分析」(新曜社)P198

ベートーヴェンの自我が確実に解放され、そして解脱の志向にあったのに対し、シューマンの自我は内側に留まったままであったこと、すなわち執着の志向にあったことが、同じ〈自我の音楽〉であっても、まったく異なる音楽となった最大の要因ではなかったか。
ロベルト・シューマンの音楽は実に感情的だ。

シューマン:ピアノ作品全集
・交響的練習曲作品13(1837)
・5つの変奏曲作品13(遺作)(1837)
・4つの夜曲作品23(1839)
・ペダル・ピアノのためのスケッチ作品58(1845)
・花の曲変ニ長調作品19(1839)
イェルク・デームス(ピアノ)

遺作の変奏曲の美しさ。何より第5変奏の、「夕べに」の木魂!!この懐かしさはいかばかりか。ここには生命への憧れがあり、大自然への尊崇がある。
先日90歳になったばかりのイケルク・デームスの、円熟期の演奏の流れの良さ。そして、ロベルト・シューマンへの深い愛情。

とりわけ、クララ・ヴィークとの結婚を許されなかった時期の、苦悩と楽観の狭間にあった1830年代後半に作曲された諸曲は、激しい起伏を伴い、とても感応的だ。デームスの心の動きも、シューマンの当時のそれと同期するような印象。

音楽は時の芸術である。そのパターンは時のなかにあり、時間ぬきには展開も完結もしない。絵画や建築、彫刻は空間、対象、色彩の関わりについて一つの主張を打ち立てるとはいえ、それらの関係は静的なものである。一方、音楽は生命のようにたえず動いているように見えるので、人の感情の変化をもっと適切に表現する。
アンソニー・ストー著/佐藤由紀・大沢忠雄・黒川孝文訳「音楽する精神—人はなぜ音楽を聴くのか?」(白揚社)P128

 

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