この1ヶ月くらいショスタコーヴィチにまつわる音楽を聴いたり、映画を観たり、書籍を読んだり、思考をしたりと、ほとんどこのソビエト連邦の天才にプライベートの時間は捧げてきた。
彼の作品のどこを切り取っても間違いなく感動を与える完成度という意味では最もベートーヴェンに近い(少なくとも僕の感覚では)。知れば知るほどショスタコーヴィチこそはベートーヴェンの衣鉢を継ぐ音楽家だと確信する。もちろん、彼の作品の多くが社会主義リアリズムという看板の下創造されたものだということもあろう、庶民に、あるいは体制という内側に意識が向いているという点でとてもわかりやすく、とっつきやすい。深遠かつ高尚でありながら(そういうところがまたクラヲタの鑑賞魂を刺激する・・・笑)。
さて、まだまだ続くショスタコーヴィチ月間。
あらためてバルシャイが先年リリースした全集から「レニングラード」交響曲を取り出して聴いた。本当に素晴らしい。
「交響曲第7番『レニングラード』を私はすばやく書き上げた。私は書かずにはいられなかった。私は国民とともにいて、戦っているわが国の姿を音楽に刻みつけたいと願った。戦争の初日から、ピアノの前に座って仕事を始めた。集中して仕事をした。私は勝利するために力と命を惜しまない我々の時代、現代についての作品を書きたいと願った。
仕事の合間に、私は通りに出て、痛みと誇りを胸に愛する街を見た。街は火事の炎で丸坊主になり、戦争の苦しみに耐えていた。レニングラードは闘っていた。それは勇敢な闘いであった。
1941年の末、私はこのシンフォニーをまさに一息で書き上げた・・・」
(全音楽譜出版社ミニチュアスコアより抜粋)
この作曲者自身の回想(この言葉自体がそもそも本気なのかどうか、あるいは信憑性があるのかどうか不明だけれど)を胸にひたすら音楽に向かうことで、聴く側の我々もまるで「その時」を体感するような錯覚に襲われる。それはショスタコーヴィチの盟友でもあったルドルフ・バルシャイの棒だということも理由の一つに挙げられるかも。ムラヴィンスキーの古い録音、あるいはトスカニーニのアメリカ初演時の放送録音など貴重な資料的価値のものも数えればキリなくあるが、ショスタコーヴィチの音楽が実演でないとその真意が理解できないだろうという理由同様、音盤に対峙するときも少なくとも良い音質の録音で聴かないと感動が半減する(というか伝わらない)。その意味でこのバルシャイの全集は大いに価値あるもの。
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」
ルドルフ・バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団(1992.9録音)
冷たい雨が降る。またもや真冬に戻ったような気温。
これだけ寒暖の差があると体調を崩す方も多いのでは。
さてさて、もういくつ寝ると・・・(笑)
ダスビダーニャによる「レニングラード」シンフォニーと伊福部「日本組曲」・・・。
おはようございます。
明日のダスビダーニャ、本当に楽しみですね!
本日夕方以降には久々にお会いできますが、これも嬉しいです!!
ということで、またよろしくお願いします!!
>雅之様
おはようございます。
楽しみですね!
チェックイン済まされたらお電話ください。
こちらこそよろしくお願いします!
[…] モーツァルト: ・ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調K.282 ・ピアノ・ソナタ第16番ハ長調K.545 ・ピアノ・ソナタ第8番イ短調K.310 ショパン: ・練習曲作品10 ・練習曲作品25~第5番ホ短調、第6番嬰ト短調、第8番変ニ長調、第11番イ短調 スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ) 1989年3月29日、ロンドン、バービカン・センターでのライブ録音 モーツァルトとショパンを並べたプログラムを一聴し、思ったのはショパンがスペシャリスト的天才であるのに対してモーツァルトはジェネラリスト的天才であるということ。そしてさらにどちらがどうだとは全く判断がつかない2人の天才を前につくづく思ったのは、ショスタコーヴィチこそがこの2人の音楽家の遺伝子を完璧に受け継いでいる真の天才ではなかろうかということ。まさにミューズが降臨するかのような創造力と構築力とを有する史上稀に見る音楽家だと、今また第4交響曲と第7交響曲に触れて再確認した。 そういえば、リヒテルもショスタコーヴィチと直接関わり合いのあるピアニストだったっけ。 […]