ロストロポーヴィチ&デヴェツィのR.シュトラウス ソナタ(1974.7録音)ほかを聴いて思ふ

鳥刺しパパゲーノが、孤独な自分を慰めるために女乞いをする切ないアリア第20番「恋人か女房が」(「魔笛」第2幕第24場)。名曲だ。

1796年、ウィーンに出て数年後の若きベートーヴェンは、パパゲーノと同じような心境に陥ったのだろうか、あるいは、少しずつ変調をきたす耳の疾患に不安を覚えてのことだろうか、敬愛するモーツァルトのかのアリアに12の変奏をつけ、チェロとピアノのための作品を書き上げた。青春の、希望と挫折を美しく音化した、同時に人気絶頂にあって、音楽家としての自信がいよいよ確信に変わったであろうベートーヴェンの奇蹟。

ロストロポーヴィチのチェロが弾け、歌う(音楽に対する共感が並大抵でない)。
デヴェツィのピアノと織りなす主題の提示からそも音色が他の誰にも増して繊細で色香に溢れる。さすがに当時ウィーンでピアニストとして一世を風靡していたベートーヴェンだけあり、ピアノはチェロとまったく互角に扱われ、音楽は変幻自在の響きを魅せる。(まるでパパゲーノが様々な試練から成長していく過程をなぞるかのよう。果たしてベートーヴェンには自身の未来にもそれを重ね合わせようという目論見があったのだろうか)

同年に作曲された「見よ、勇者は帰る」による12の変奏曲は、ベートーヴェンが終生最も尊敬した音楽家ヘンデルのオラトリオ「ユダス・マカベウス」第3部からの有名な旋律に変奏を付したものだが、こちらもロストロポーヴィチの大らかかつ力強いチェロがものを言う(自信に漲るベートーヴェンの雄姿を髣髴とさせる演奏だ)。

音楽という芸術の本質を説明するのはとても難しい。その最も確実な手だては、インスピレーションに駆られた音楽家の創作の様子を観察することであろう。それはさまざまな点で、他の芸術家たちの仕事ぶりとは大きく異なるはずである。先に確認したように、音楽以外の芸術においては、対象についての純粋直観、すなわち意志から解き放たれた直観が創作に先立たねばならない。そして提示した作品の効果によって、観る者の心にそのイメージをふたたび喚起するのである。こうした対象は純粋直観を通じてイデアにまで高められるとはいえ、音楽家の視界にはまったく入ってこない。他の諸芸術においては認識を介してはじめて世界の本質が表現されるのに対して、音楽はそれ自体が世界のイデアであり、世界は音楽のうちにその本質をじかに映し出すからだ。
「ベートーヴェン」(1870)
ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P129

およそショーペンハウアーの影響下にある言だが、ワーグナーがベートーヴェンの作品にこそ見出した音楽の魔法であり、彼の言葉には真理がある。そして、ロストロポーヴィチの弾くベートーヴェンの青年期の作品に早、インスピレーションに駆られた作曲家の創造の奇蹟を見出すことができることが実に驚異的なのである。

ベートーヴェン:
・「魔笛」の「恋人か女房が」の主題による12の変奏曲作品66(1796)
・「ユダス・マカベウス」の「見よ、勇者は帰る」の主題による12の変奏曲ト長調WoO45(1796)
リヒャルト・シュトラウス:
・チェロ・ソナタヘ長調作品6(1882-83)
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
ヴァッソ・デヴェツィ(ピアノ)(1974.7録音)

一方、19歳の若きシュトラウスの佳作。後年のシュトラウスとは別世界の、いまだベートーヴェンやブラームスという先達の影響下にある憧憬に満ちた音調が実に浪漫的で心に刺さる。
シュトラウスがワーグナーの1870年の件の小論を読んでいたのかどうかは定かでないが、ここには何より「それ自体が世界のイデア」であることを証明する音楽があり、また(決して誰もが知る作品とは言えない)それを見事に再生するロストロポーヴィチこそ一世一代の大チェリストであることを認めるべき傑作録音なのである。

ベートーヴェン、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、そしてロストロポーヴィチ。
天才たちの系譜。
まもなく2018年が終わる。

 

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