音楽とはコミュニケーションである

Schumann_celibidache.jpg「癒し」とは深いコミュニケーションに因を発する結果であるというようなことを昨日書いた。セミナーで多くの人と対峙してきた長年の経験から間違いないと確信を持ってはいるのだが、こと「(クラシック)音楽の癒し効果」に関してはどうなのだろうか?
演奏者と聴衆が会場(ホール)という一つの共有空間の中で心と心を通い合わせながら、互いに目に見えない気(エネルギー)を感じつつ、音を楽しむことが音楽鑑賞の醍醐味であり、それによって大きな感動が生まれ、結果的に双方にとっての「癒し」につながるのだと思うのだが、では、コンサート活動の一切を放棄したグレン・グールドの場合は一体どうなるのか?没後25年以上を経、いまだに彼のレコードは売れ続け、聴く者に「安心」を与えるという。彼の全録音を聴いたわけではないが、確かに天下の名盤と目される一連のバッハ演奏を聴く限り、そこには「感動」があるし、たとえ様々なピアニストの演奏を楽しんだとしても最終的に行き着くのはやっぱりグールド演奏だったりすることを考えると、彼の創造力は並大抵のものではないのだと思う。それほどに内容的にも技術的にも衝撃的で、常に新しい発見を与えてくれる奇跡的な演奏(音盤)なのだ。
とはいえ、これをもってグレン・グールドの演奏解釈を語ることはできても、音楽を通して彼とコミュニケーションしたことには決してならない。結局、音盤によってグレン・グールドの創り出した音楽の輪郭や解釈はつかめるものの、決して人間グールドとコミュニケーションしたことにならないことが「グールドを聴く」ことの弱点と言えば弱点だとここのところ僕は考えるのである。

会場で生の音に接して目の前で演奏している音楽家の呼吸やしぐさの全てを感じることこそ、大事な音楽体験であり、そこには確かなコミュニケーションがあり、「癒し」があるのだと僕は思うのである(ただし、僕自身は決して実演至上主義ではない。前にも書いたようにCDなどの録音で音楽を楽しむことは、楽曲を理解する上でとても重要なツールであり、それはそれで大切なことだと思う)。

シューマン:交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」、第4番ニ短調作品120
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

同じことは、グールドと全く正反対の持論を披瀝していたセルジュ・チェリビダッケの演奏にも言えることである。ブログを書き始めて500回を超え、僕はこれまで1枚もチェリビダッケの音盤を採り上げてこなかった。僕自身が彼の音楽を無条件に溺愛する熱心なファンでないということもあるが、残念ながら、生前「音の缶詰」を拒絶していた巨匠の実演、すなわち真の心の声を聴く機会を逸してしまった僕にとって、一部の熱狂的な愛好家の間で絶賛される演奏(ブルックナーであれ、ベートーヴェンであれ)をCDだけで判断ですることはとても危険なことだと思うからだ(聴いただけでは正直わからないというのも本音である)。

確かにこのシューマンの音楽は素晴らしい。音の一つ一つが意味深い。感動的な演奏であることは終演後の拍手を聴いても明らかである。しかし、何度も聴こうとは思わない。チェリビダッケの描いた極めて正確な設計図を見せられているようで心底心を動かされないのだ。この演奏が披露された当日(いずれも80年代後半)、ミュンヘンのガスタイク・ザールに居合わせた人達だけが体験し得たおそらく「神懸り的体験」を、記録として残された音盤から追体験することは不可能である。
音楽をするということは、その会場での演奏家との一期一会であり、チェリビダッケが主張したように、瞬間瞬間を共有し、「感じ」、そして「理解し」、「想う」ことが最重要なのだとこの音盤を聴いてあらためて感じさせられた。それがどんな演奏であれ(もちろん名演奏に越したことはないが)、音楽を生で体感するという行為は重要なことである。

たまには生の音楽を聴きに行きましょう!!真剣に演奏者と対峙する「心」を持てば、そこには「癒し」があるはずです(その際、演奏する側もマジでなければならないが・・・)。

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