クレンペラー指揮フィルハーモニア管のベートーヴェン第1番&「田園」(1957.10録音)を聴いて思ふ

躍動する青春。そこにあるのは力強い律動。最初の交響曲からすでに完成形であったことがわかる。ベートーヴェンははじめから革新的だったのだ。

交響曲第1番ハ長調。輝かしい第1楽章主部アレグロ・コン・ブリオは、オットー・クレンペラーの棒をもってして、微動だにしない、一層堂々たる趣きを獲得する。その音調は、中期の交響曲第5番のもつ堅牢な集中力や、後期の交響曲第9番がもつ深遠で崇高な世界観を髣髴とさせる。何と的確な描写力。続く、第2楽章アンダンテ・カンタービレ・コン・モートにある爽快な自然美。また、第3楽章メヌエットの豪快さは、トリオの精妙な音楽性と対比され、僕たちの心に実に直接に響く。そして終楽章では、アダージョ冒頭の壮絶なうねりから主部アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェに移行する瞬間に潜む「永遠の刻」が見事に表出される。

オットー・クレンペラーのベートーヴェンは素晴らしい。

ベートーヴェン:
・交響曲第1番ハ長調作品21(1957.10.28&29録音)
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1957.10.7&8録音)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団

交響曲第6番ヘ長調「田園」。第1楽章「田舎に到着したときの晴れやかな気分」提示部の反復は相変わらず煩わしいが、理想的なテンポとアゴーギクに、クレンペラーの音楽への崇敬の念を思う。特に展開部の目くるめくニュアンス豊かな詩情が素晴らしい。
第2楽章「小川のほとりの情景」は、神々しい自然讃歌。また、ゆったりと歌われる第3楽章「田舎の人々の楽しい集い」の平和な調べから一転し、第4楽章「雷雨、嵐」にある、大自然との闘争の険しさの、堂に入る表現に快哉を叫ぶ。
特筆すべきは、終楽章「牧歌 嵐のあとの喜ばしい感謝に満ちた気分」にある、大宇宙と同期する律動。曲が進むにつれ推進力を増し、音楽は徹底的に呪縛からの解放、自由の獲得を体現するのだが、何よりコーダの静けさ満ちるハーモニー(諧調)に安寧を覚えるのである。

音楽の本領はあくまでも、空間にも時間にも属さない響きの織りなす諧調にある。それをかたちにする音楽家は、伝えたい内容を律動の時間の流れにのせることによって、覚醒した現象界に理解の手を差しのべる。それはちょうど、あの寓意的な夢が個体の日常的に慣れ親しんだ表象と結びついたとたん、外界を向いて目覚めた意識が―現実の生の出来事との著しい懸隔にたちまち気づきはするものの―夢の像を把握できるようになるのと同じことである。こうして音楽家は、自分の音にリズムをつけて配列することで、目に見える形象世界に触れる。そこには、われわれの直観が可視的な物体の運動を理解する、それとよく似た原理がはたらいている。
(池上純一訳「ベートーヴェン」1870)
ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P133-134

リズム、律動こそが音楽に内在する力の源。
オットー・クレンペラーのベートーヴェンが美しい。

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