チューリヒにおける彼の最初のコンサートで受けた印象は、とてつもないものがありました。それはすでに彼が大きな名声を誇っているからではなく、指揮台にのぼるのもままならないこの人物が、肉体的にコンサートを指揮するのが可能だとは思っていなかったからです。
(ヴィリー・シュー、1965年5月14日、クレンペラー80歳の誕生日の記念番組用原稿から抜粋)
~E・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P221
間違いない。クレンペラーは、ジェルジ・リゲティをして、彼の演奏は自分の生涯の中でもっとも大きな音楽体験だったと言わしめるほどの指揮者だったのだから。
彼の断固さと途方もない意志の力は音楽以外のものに(・・・)結びつくのではなく、この緊張がまさに芸術作品における事の適切さに的中する方向に向かっている点で、彼はじつは古典的な音楽家だと思えるのです。
~同上書P221
ヴィリー・シューの的を射たこの感想は、クレンペラーが晩年、EMIに残した録音からも十分に察することができる。果たして実演に触れることのできなかった無念はあるが、これだけ多数の優秀な録音を残してくれたことに僕たちはそもそも感謝するべきであろう。
言葉にならない「絶唱」とでも表現すれば良いのか、およそバロック音楽らしくない分厚い音と波動には、19世紀浪漫の残り香と20世紀的闘争の抗いと調和がある。何か強烈な力が胸を締めつけ、不要な感情の発露を喚起する。残るのは神聖な静けさだ。音楽に没頭せよと天の声が聞こえるよう。
ヘンデルの天才的創造力、あるいは、クレンペラーの情緒的なようで実際には理知に富む再生力。合奏協奏曲イ短調作品6-4が擁する、あまりに人間的な音調に僕は思わず絶句した。恐るべき名演奏。
ワーグナー編曲によるグルックの序曲の、混じり気のない透明感はクレンペラーの専売特許。これだけの厚みがあると、大抵もっと重く、もっと鈍い印象が拭えないものだが、この澄み切った音楽性満点の演奏は、フルトヴェングラーといえども後塵を拝するだろう。
そして、クレンペラー自身の編曲によるラモーのガヴォットは、単色墨色でありながら濃淡豊かな色彩に溢れた悲し気な歌。また、バッハの管弦楽組曲は、古き良き欧州の風趣と枯淡の境地交る匠の技。
クレンペラーは生涯に何度もひどい事故や病気に苦しめられた。それにもめげず古典主義とロマン主義音楽の解釈にかけて、もっとも傑出した指揮者のひとりに成長した。
~ルーベルト・シェトレ著/喜多尾道冬訳「指揮台の神々—世紀の大指揮者列伝」(音楽之友社)P189
生きることの美しさよ。