カペー弦楽四重奏団 ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第14番作品131(1928.10録音)ほか

芸術は存在するという仮説に身をゆだねたとき、私には、音楽の伝えうるものが、よい天気だとか阿片を吸った一夜のような単純な神経の喜び以上のもの、少なくも私の予感によれば、もっと現実的で豊かな陶酔であるようにすら思われた。だが、そのようにより高く、より純粋な、より真実と思われる感動を与える彫刻や音楽が、ある精神の現実に対応しないはずはありえない。さもなければ人生にはいかなる意味もなくなってしまうだろう。だから、何物もヴァントゥイユの美しい一楽節以上に、私がこれまでの人生でときどき感じたあの特殊な快楽、たとえばマルタンヴィルの鐘塔や、バルベックの道で何本かの木を前にしたとき、あるいはもっと単純に、この作品の冒頭で一杯の紅茶を飲んだとき、そういったときに感じた快楽に似かよったものはなかったのだ。
マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて10 第5篇囚われの女II」(集英社文庫ヘリテージシリーズ)P327

詩的な、しかし持って回ったような言葉遣いが何とも美しい。結局、プルーストは音楽をことのほか愛した。とりわけ、単純な神経の喜び以上のものをもたらしてくれるベートーヴェンの音楽を愛した。

晩年、彼はかのカペー弦楽四重奏団を自宅に招び、彼らが十八番とする嬰ハ短調の弦楽四重奏曲を演奏させたのだという。何という贅沢!!しかし、それ以上の快楽はなく、その行為はプルーストにとってほかの何物にも代え難いものだった。

残されたカペー弦楽四重奏団によるベートーヴェンはいずれも「超」の付く逸品。かつてあらえびすは次のように評している。

この十六の絃楽四重奏曲を備える人は、原則としてカペエを採り、カペエの無いものはブッシュを、ブッシュの無いものはレナーを採れば大した間違いは無い。
あらえびす「クラシック名盤楽聖物語」(河出書房新社)P105

作品百三十一の「四重奏曲嬰ハ短調」は後の二曲と共にベートーヴェンの最大傑作だが、演奏はカペエとブッシュと二つの名盤がある。カペエは繊麗な美しさで、ブッシュは蒼古な雄大さがあり、いずれとも言い難いが、演奏はカペエに一日の長があり(コロムビア)、録音はブッシュの方に新しい良さがある(ビクター)。
~同上書P105

ほとんど一発録りの、即興的なベートーヴェンは、古い、針音残る音盤の限界を超えて、切々と僕たちの脳みそに音楽の至純の形を届けてくれる。演奏上のミスなど何のその。この、現実的な音像に文句をいう輩には、それこそ芸術は存在しまい。

・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131(1928.10.5&8録音)
・フランク:ピアノ五重奏曲ヘ短調(1928.10.20録音)
マルセル・シャンピ(ピアノ)
カペー弦楽四重奏団
ルイ=リュシアン・カペー(第1ヴァイオリン)
モーリス・エウィット(第2ヴァイオリン)
アンリ・ブノワ(ヴィオラ)
カミーユ・ドゥロベール(チェロ)

第1楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポ・エ・モルト・エスプレッシーヴォの陶酔からこの世のものと思えぬ官能が醸される。続く第2楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェの喜び、そして、短い第3楽章アレグロ・モデラート—アダージョを経て、(主題と6つの変奏を持つ)第4楽章アンダンテ・マ・ノン・トロッポ・エ・モルト・カンタービレに至り音楽はますます比類のないものに変貌して行く。まるでベートーヴェン自身が夢の中で奏でるかのような錯覚さえ覚えるリアリティ。音楽は楽章を追う毎に現実に溶け込んでゆくのである。第5楽章プレストの柔らかな激しさ、あるいは一転して第6楽章アダージョ・クワジ・ウン・ポコ・アンダンテの幾分暗い、悲しげな表情への移ろいの美しさ。そこから流れて、終楽章アレグロの弾ける生命の希望。ベートーヴェンのすべてを表現し尽くした最高の形がここにはある。

さらにまた、あらえびすが次のように書いた弦楽四重奏曲イ短調も絶品!

作品百三十二「四重奏曲イ短調」のカペエは幽婉、美妙の名演奏だ。第三楽章の「病後の祈」の神々しさに至っては断じて比類が無い(コロムビア)。ブッシュのビクター・レコードも、総体としては見事な出来である。
あらえびす「クラシック名盤楽聖物語」(河出書房新社)P105

確かに第3楽章「リディア旋法による、病気から回復した者の神に対する聖なる感謝の歌」の言葉にならない感動は、時空を超え他のどの四重奏団の録音さえも凌駕する。

ベートーヴェン:
・弦楽四重奏曲第10番変ホ長調作品74「ハープ」(1928.6.21-22録音)
・弦楽四重奏曲第15番イ短調作品132(1928.10.8-10録音)
カペー弦楽四重奏団
ルイ=リュシアン・カペー(第1ヴァイオリン)
モーリス・エウィット(第2ヴァイオリン)
アンリ・ブノワ(ヴィオラ)
カミーユ・ドゥロベール(チェロ)

わずか12曲しか残されていないカペーの録音はいずれも後世に伝えるべき美しい演奏であり、録音からわずか2ヶ月後に急逝するリュシアン・カペーがあと10年も生きていたとしたら20世紀の室内楽レコード史はまるで違ったものになっていたかもしれないと思うと残念でならない(シャンピとのフランクも絶品ゆえ)。

もし芸術が本当に実人生の延長にすぎないならば、そのために何かを犠牲にする価値があるのだろうか? そうなれば、芸術も人生同様に非現実的なものになるのではあるまいか? だがこの七重奏曲にいっそう聴き入るにつれて、私にはどうもそう思われなくなってきた。赤みを帯びたこの七重奏曲は、なるほどあの白いソナタとは奇妙に異なっている。
マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて10 第5篇囚われの女II」(集英社文庫ヘリテージシリーズ)P91-92

何と1世紀近くが経過するのだ。

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