ドラティ&デトロイト響のシュトラウス「エジプトのヘレナ」を聴いて思ふ

r_strauss_agyptische_helena_dorati015少なくとも現代において、おそらく人間は知識や情報を詰め込み過ぎているのかもしれない。
意識して記憶しようとしまいが、刷り込みというものだって無視できない。僕たちが感じる恐れや不安は記憶から生じるものだから。
古来、ドラマや劇作中でいわゆる「妙薬」が使われているのは、人々がやはり「忘れること」の気持ち良さ、忘我の境地をどこかで知っているからだろうか。

決してとっつき易いわけではないのだけれど、聴けば聴くほどツボにはまる音楽作品がある。リヒャルト・シュトラウスとフーゴー・フォン・ホーフマンスタールの5作目の共同作品である「エジプトとヘレナ」などその最右翼。シュトラウスのオペラの中では間違いなく不人気作の一つに数えられるが、そこにはワーグナー的旋律や響きに溢れながらモーツァルト的簡潔さがあり、その上いかにもリヒャルト・シュトラウスという音楽美もあり、自ずと心動かされる。

例えば、第1幕第3場のヘレナと魔女アイトラの二重唱には、「神々の黄昏」の夜明けから日の出の旋律が木霊する。何とも恍惚とした音楽だが、ここはヘレナが「過去を忘れる薬」を受け取る場面だ。

「エジプトのヘレナ」は、幻影であるトロイアのヘレナと現実であるエジプトのヘレナを魔女アイトラの魔法の秘薬によって二人を一つの存在にしようと試みたホーフマンスタールのある種読み替えということだが、「忘れ薬」を媒介にする点がいかにもホーフマンスタールらしい。しかも、一般には「要は夫婦の仲直りの物語だ」と短絡する向きもあるが、ホーフマンスタールが何らの意図をもたずに台本を上梓するはずがないと僕は考える。「忘れる」ということは、意外にネガティブな側面に焦点が当てられがちだが、人間は忘れるがゆえに新しいものを取り込め、そこには浄化(デトックス)が必 ず起こり、常に生気を漲らせることが可能になる。そもそも転生という輪の中で特殊能力を持った人以外、過去世を忘れて生を受けるのだから、忘れないことに は都合が悪いということもある。おそらくこれは「生まれ変わりによる浄化と再生」が企図された物語なのである。

リヒャルト・シュトラウス:歌劇「エジプトのヘレナ」
ギネス・ジョーンズ(ヘレナ、ソプラノ)
マッティ・カストゥ(メネラス、テノール)
ダイナ・ブライアント(ヘルミオーネ、ソプラノ)
バーバラ・ヘンドリックス(アイトラ、ソプラノ)
ウィラード・ホワイト(アルタイル、バリトン)
カーティス・ラヤム(ダ・ウド、テノール)
ビルギット・フィニラ(全知の貝殻、アルト)、ほか
ケネス・ジュウェル・コラール
アンタル・ドラティ指揮デトロイト交響楽団(1979.5録音)

実際、男女、夫婦に限らず、人間の関係を円滑にする術に「水に流す」といういわれがある。しかし、怨みや辛みがある以上、この「流す」という行為はなかなか難しい。真に「我(エゴ)」を超越した時に、本当の意味での「水に流す」ことが可能なんだ。物語の中ではヘレナが魔法にかけられたり魔法を解かれたり忙しいが、結局妙薬(魔法)の力など借りることなくそれを体現できることが「悟る」ということなのだと僕は思う。
ホーフマンスタールは、自身の内に在る「憧れ」を物語化したと考えられなくもない。

第2幕第3場のヘレナとアルタイラのやり取りの場面でも「黄昏」のモチーフが裏側で響く。どんな画策を練っても所詮は「駆け引き」、人間の思考をはみ出すことはない。もしも没落がないのだとするなら、余計な「ゲーム」はさておき、ありのまま正直に関係を結んでいけば良しなのだ。どんなプロセスを経ようと結果は「幸福」なのだから。

だいぶ「妄想」が膨らんだ。
それにしてもリヒャルト・シュトラウスの音楽は聴けば聴くほど意味深い。
何より、人間を煽動するパワーがある。それはかのワーグナーの音楽以上かも。おそらく音楽の背面にある全音階を巧みに使った古典的センスがものをいうのだろう。
ドラティの指揮もさることながらやはりギネス・ジョーンズが出色。バーバラ・ヘンドリックスとの掛け合いも見事。

 

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