アルバン・ベルク四重奏団のモーツァルトK.515&K.516(1986.12録音)を聴いて思ふ

mozart_quintet5_abq死を怖れることなかれとモーツァルトは言う。
人生の苦悩は、(「魔笛」で示唆する如く)壁を乗り越えるための試練であり、そこには身分や年齢や、あるいは性別の差はなく、すべて人間ひとりひとりに一様に与えられた贈物なのだと彼は言うのえある。特に晩年の、あまりに透き通った美しい音楽はいずれも人間業とは思えない境地に達する。

死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。―ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にはいないかもと考えずに床につくことはありません。
(1787年4月4日付レオポルトへの見舞いの手紙)
西川尚生著「作曲家◎人と作品 モーツァルト」(音楽之友社)P163

モーツァルトの、病に倒れた父を見舞う手紙には、死への怖れどころかむしろ憧憬が語られる。フリーメイスン的思想の行き着いた先だろうが、この世が幻であることと、「死によってすべてが終わるのでないこと」を悟っていた天才の魂の声がリアルに聞こえるようだ。
晩年のモーツァルトを追う。

対で作曲されたハ長調K.515(1787年4月19日完成)とト短調K.516(1787年5月16日完成)の弦楽五重奏曲。
明と暗の対比。ハ長調の解放感、そしてト短調の憂鬱。いずれもがあまりにも哀しくそして愉しい。あらゆる感情がひとつになり、生も死も明るいことを表す名作。

モーツァルト:
・弦楽五重奏曲第3番ハ長調K.515
・弦楽五重奏曲第4番ト短調K.516
マーカス・ヴォルフ(ヴィオラ)
アルバン・ベルク四重奏団(1986.12録音)

長大な第1楽章アレグロの大らかさ。何より提示部冒頭のチェロの意味深く駆け上がる旋律が美しい。ここでモーツァルトは早くも死を肯定するよう。第2楽章アンダンテは、もうこれで終わっても良いかと思わせるほどの優しく哀しい音楽。ヴァイオリンとヴィオラの対話は、男と女のそれか、それとも天使と悪魔のそれか、あるいは生と死のやり取りなのか・・・、すべてが対等に奏でられるあまりの美しさ。
第3楽章メヌエットも不思議な翳を持つ。何よりトリオの深淵。
さらに、終楽章アレグロの軽快でありながら、やっぱりどこか冷めた輪舞!!
モーツァルトは表面上哀しみを抑えているのだろう、それでも先の手紙通り死を完全に受け容れたこの人の精神は真に懐が深い。まるですべてを包括する死の舞踏。

そして、父の死(1787年5月28日)の12日前に完成したト短調K.516については、言葉にならぬ感動しかない。第3楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポにある静寂の音、生き生きとした悲しみ・・・。マーカス・ヴォルフとアルバン・ベルク四重奏団による稀代の名演奏は、それこそモーツァルトにとって死は終わりでなく、生と同一のものだったことを示すほど暗く明るい。

ところで、辻邦生さんがモーツァルトの音楽についてこんなことを書いておられた。

モーツァルトの場合、その情感的イデーは〈生〉そのものから生まれていた。彼の書簡には、どの一行にも、陽気で同時に真面目であり、冗談好きで同時に細かく気を遣うモーツァルトの人柄が溢れているが、やはりそこでわれわれを驚かせるのは、父親あての書簡の一つにあるように、たえず〈死〉の意識が通奏低音になっていることだ。モーツァルトの典雅で、調和に満ちた快活な〈生〉が〈死〉に隈どられていたということ―そこにモーツァルトの溢れる情感の秘密がある。
辻邦生著「美神と饗宴の森で」(新潮社)P137

人間はどうしても「死」をネガティブなものとして捉えがち。
僕は思う。〈生〉が〈死〉に隈どられていたのではなく、〈生〉と〈死〉は陰陽一元の如しだと。

 

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