マタチッチ指揮ウィーン響 アイネム ブルックナー・ディアローク(1983.3.13Live)ほかを聴いて思ふ

未完に終わった「第九」のフィナーレは以前のどの作品よりも壮大なものにんるはずだった。ブルックナーはコーダの手前に登場する壮麗なコラールを書きかけのまま亡くなった。個のコラールが、あのアダージョの「生からの別れ」と同じ輪郭を持っているばかりでなく、同質の寂滅感を漂わせていることは象徴的である。「第九交響曲」は「テ・デウム」と同様、「愛する神」に献呈されている。「テ・デウム」の冒頭音型に付き添われたこのコラールにブルックナーは何を託そうとしたのだろうか。
土田英三郎著「カラー版作曲家の生涯 ブルックナー」(新潮文庫)P179

「アントン・ブルックナーとの対話」とは、何とも洒落たセンスだ。
ブルックナーの音楽は、時に彼岸の音楽だと称され、演奏によってはあまりに神がかった透明感を獲得するが、実際死後の世界にある彼と交信し、創出したような印象を醸すこの曲は、わずか16分ほどの音楽とはいえ、確かに、黄泉の国からのブルックナーの箴言の(あくまで作曲者の個人的音化だが)様相を示す。作品は、遺された交響曲第9番終楽章のコラールを素材とする。

ブルックナーの農夫のような身体には、創造的な精神のほかに、きわめて優しくまた不安定な魂が宿っていた。臆病な、内気な、そして悩みに満ちた魂が。そして、これには異性に対する不幸な関係が大きな影響を及ぼしていたのである。
(F.ブルーメ/根岸一美訳「ブルックナーの生涯」)
「音楽の手帖 ブルックナー」(青土社)P268

自由な魂になったブルックナーに、もはや臆病さも、内気さも、もちろん悩みもない。そんな彼との対話をゴットフリート・フォン・アイネムは敢行、いわば未完の交響曲の完成を彼なりに試みたのである。曲は、20世紀的要素、あるいは他の作曲家からの影響を含みつつもなるほど十分ブルックナー然とする。最晩年のマタチッチの指揮は、敢然とし、だからこそ、彼らしい(ある意味)ブルックナーらしさ(?)を削ぐことのない動的なものだ。

・ハイドン:交響曲第103番変ホ長調Hob.I:103「太鼓連打」(1795)(1984.1.7Live)
・シューベルト:交響曲第7番ロ短調D759「未完成」(1822)(1984.1.7Live)
・アイネム:ブルックナー・ディアローク作品39(1971)(1983.3.13Live)
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮ウィーン交響楽団

ムジークフェライン大ホールでの実況録音。
内面猛烈な喜びに満ちる素朴なマタチッチのハイドン。剛毅さの宿る愚直なハイドン。第1楽章主部アレグロ・コン・スピーリトの推進力!そして、コーダのティンパニのロールの意味深さ!その後の、低弦による楽想に込められる思念!続く、第2楽章アンダンテ・ピウ・トスト・アレグレットも堂々たる響き、ヴァイオリン・ソロによる第2主題の変奏が可憐で美しい。第3楽章メヌエットはいかにも無骨だ。ただし、(マタチッチの指揮する)終楽章アレグロ・コン・スピーリトには、相応の感情の爆発がある。

交響曲についてハイドンが抱く生命感情はまだ統一を保っていたわけだが、シューベルトは感情の爆発をもはやむりに抑えつけようとはしなかった。彼の心理のありようにはさまざまな段階があって、打ちひしがれた傷心から、デモーニッシュな反抗・反撥を経て、甘くメランコリックな耽溺に至るか、あるいは自然に近いくつろぎに達している。
(F.グラースベルガー/高辻知義訳「形式とエクスタシー—交響曲におけるハイドン=シューベルト=ブルックナーの関係」
「音楽の手帖 ブルックナー」(青土社)P179

第1楽章アレグロ・モデラート冒頭から想いを込めて歌われる「未完成」交響曲。確かな生命力!一方、第2楽章アンダンテ・コン・モートに終始注がれる祈りの力と、クライマックスのデモーニッシュな音響に心奪われる。老マタチッチへの聴衆の、終演後の敬意ある拍手喝采が優しい。


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