ホグウッド指揮ヘンデル&ハイドン・ソサエティ ヘンデル(モーツァルト編曲)「アキスとガラティア」K.566を聴いて思ふ

ヘンデルはかの人(スカルラッティ)についていつも大変満足気な様子で話をしていた。というのも彼はその芸術家としての偉大な才能の他に、この上なき善き性格の持ち主であり、実に礼儀正しい人だったからである。一方で、後になってからであるが、マドリード出身の2人のプラ氏(ともに著名なオーボエ奏者)によると、スカルラッティもヘンデルの人柄について、その偉大な演奏と同様に褒めたたえ、彼に敬意を表して胸で十字を切っていた様を伝えている。
ラルフ・カークパトリック著/原田宏司監訳・門野良典訳「ドメニコ・スカルラッティ」(音楽之友社)P48

音楽の才能だけでなく、人間としても一流であった同年生まれの2人の天才。ことに、ヘンデルは、後の天才たち—モーツァルトやベートーヴェンや—に多大な影響を与えた。

日銭を稼ぐための大きな手段の一つだったと考えると幻滅なのだが、現実とはそういうものだ。モーツァルト色のヘンデル。モーツァルトといえど、さすがに先達ヘンデルの原典を大幅に切り貼りすることはなかった。彼が試みたのは、オルガン・パートを省いたことと管楽器の付加と、そして、弦楽器のパートを部分的に書き改めることであった。

マスク(仮面劇)「エイシスとガラテア」
生まれ変わったそれは、ドイツ語歌詞となり(ファン・スヴィーデン男爵の手によるといわれる)、「アキスとガラティア」K.566となった。
この単純明快な物語が、モーツァルトの手によって、まるでモーツァルトの創造した歌劇として響くのだ。音楽はどこまでも柔らかく、また、どこまでも喜びに満ちていながら、端々にいかにもモーツァルト的哀感が潜み、どこまでも美しい。

・ヘンデル(モーツァルト編曲):2幕の田園劇「アキスとガラティア」K.566(ドイツ語版)
リン・ドーソン(ガラティア、ソプラノ)
ジョン・マーク・エインズリー(アキス、テノール)
ニコ・ヴァン・デア・メール(ダモーン、テノール)
マイケル・ジョージ(ポリフェム、バス)
クリストファー・ホグウッド指揮ヘンデル&ハイドン・ソサエティ(1990.4&5録音)

敬愛する天才の作品に手を加えるという、願ってもいない絶好機に対する感謝の念とでもいうのか、全編を貫く慈しみの念が、物語の直接的な悲哀を超えて胸に刺さる。
第2幕最後の第18曲合唱が何と優美に鳴り渡ることよ。

ガラティアよ、もう泣かないで、
アキスは今、神となって現われた!
ごらんなさい、彼は床から立ち上がった
ごらんなさい、頭のまわりの花の冠を!
幸あれ、やさしく奏でる小川よ
羊飼いの喜びよ、ミューズの歌よ!
野を横切って喜びのうちに流れ
そのやさしい恋を歌っている!

(石井宏訳)

ホグウッドの指揮は、モーツァルト当時の音の再現を試みるとはいえ、学究的になり過ぎず、とても温かく、そして、隅から隅まで喜びに満ちる音調を醸す。最後の合唱に向かって進みゆく音楽の中で、リン・ドーソン歌うガラティアの最後のアリア「やさしい喜びの宿る心よ」のあまりの純粋美。作曲したのはもちろんヘンデルだが、モーツァルトによって新たに味付けされた音楽のあまりのふくよかさ!

この頃のモーツァルトは、経済的に逼迫する、その日暮らし的な、そして、日々借金の依頼を繰り返さざるを得ない状況だったのだが、他の諸曲同様、そんなことを微塵も感じさせない素晴らしさ。(当たり前だ、これはモーツァルトにとって日銭を稼ぐための単に仕事だったのだから)

今どうしても私はお金をお借りしなくてはなりません。—ああ、でも誰に頼ったらよいのでしょう? あなたのほかに、最上の友よ。 いないのです!
(1788年6月27日付プフベルク宛)
高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P387

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