2000年。4月43日。
今日はたいへんめでたい日だ! スペインに王さまがいたのだ。見つかったんだ。その王さまというのは—このおれだ。今日はじめて、それがわかった。うちあけていえば、まるで稲妻が照らすように、ぱっとそれがわかった。いったい、どうしてこれまで自分が九等官だなんて思っていられたのか、わけがわからぬ。あんなとほうもない狂気じみた空想が、まったくどうしておれの頭に浮かびえたのか? まだだれ一人おれを精神病院へ入れようと思いつかないうちで、まあまあ仕合わせだった。いまや、おれにはなにもかもがはっきりした。いまのおれには、いっさいが手に取るようにはっきり見える。
~ゴーゴリ作/横田瑞穂訳「狂人日記 他二篇」(岩波文庫)P206-207
そもそも世界は虚構であり、空想であることを知らねばならない。
僕たちはすでに酔っ払っているのである。
先日、藝大オケの定期演奏会を聴いた。
すべてが胸のすくような名演だったが、中でもヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」は出色だった。
マッケラスが指揮する「シンフォニエッタ」を聴いていて、妻が「これ、先日聴いた曲じゃない?」と言ったものだから驚いた。初めて聴いた曲であるにもかかわらず、しかも異曲とはいえ同一作曲家の作品であるゆえ音楽的イディオムは共通するものがあるのだから、音楽家でもない、音楽に精通するわけでもない妻の耳の良さに吃驚した。
ちなみに、マッケラスは音楽院で勉学中、ヤルミル・ブルクハウザーに初めて「タラス・ブーリバ」を紹介されたそうだ。そして、その講義、研究はスコアを読み、ピアノで演奏するというものだったらしい。その後、1947年にラファエル・クーベリック指揮チェコ・フィルの実演で初めてこの曲の実演に触れ、感銘を受けたという。また、「カーチャ・カバノヴァ―」の研究のためブルノを訪問したとき、「タラス」についても調査した結果、初稿と改訂稿の、特にテンポのあまりの違いに驚いたことを彼は回想している(ヤナーチェクは改訂の際、ヴァーツラフ・ターリヒの解釈に影響を受けたらしい)。
マッケラスの「タラス・ブーリバ」は、作品の背景にある暗澹たる死の影がスポイルされた、実に明朗な、むしろ喜びに溢れたものだ(ちなみに、マッケラスはターリヒに師事している)。まさにヤナーチェクへの共感の代物だと思う。
ターリヒ編による組曲をマッケラス自身が再改訂した「利口な女狐の物語」も素晴らしい出来ではあるものの、かつてのウィーン・フィルとの全曲盤の名演を超えることはできていない(もちろんチェコ・フィルの土俗的な色合いはウィーン・フィルの音色を凌駕しているだろうが)。
しかし、さすがにシンフォニエッタは素晴らしい。第1楽章アレグレットから金管群の眩しい咆哮が魂にまで響く。