ハスキル フリッチャイ指揮バイエルン国立管 モーツァルト ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595(1957.9録音)ほか

ハスキルの演奏には僕はいつもどことなく厭世的な、憂える美を感じて来た。
おそらく実演だと確かな表現を堪能できるのだろうが、(本音では)録音だと隔靴掻痒の、今一つ彼女の本領が伝わってこない印象がずっとあった。

世界はハスキルのモーツァルトを別格扱いする。
ましてそれがフリッチャイの伴奏によるものならなおさらだ。

最晩年の傑作、ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595。
何だかとても寂しい、いかにも純白といえば聞こえは良いが、何だか暗澹たる、沈潜した気持が前面に押し出された音楽に、僕はどうにも居ても立ってもいられず、いつも途中で投げ出していた。

しかし、これこそが経済的にも精神的にも窮したモーツァルトの心情表現の最右翼として語り継がれても良いのではないのかと思えるようになったのはつい最近のことだ。
十人十色。音楽の表現などに答がないのは当然の理。誰のどんな演奏であろうと表に出る以上は存在意義が必ずある。好き嫌いと言う観点からも好む人があれば嫌い人もある。それに状態が変われば、良く聴こえる日もあればそうでない日があるのも当たり前のこと。そんなことを考えながら僕は虚心に耳を傾けた。

モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第19番ヘ長調K.459(1955.9.21-22録音)
クララ・ハスキル(ピアノ)
フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595(1957.9.7録音)
クララ・ハスキル(ピアノ)
フェレンツ・フリッチャイ指揮バイエルン国立管弦楽団

旧モーツァルト全集では、第1楽章管弦楽提示部における第46小節から7小節が欠落している(モーツァルトが手稿譜に書き忘れたらしい)が、この演奏も旧全集に拠っている。バックハウス&ベームによるデッカ録音もそうだが、わずか7小節が抜けるだけで聴き手としては片腕を取られたくらいの違和感があるのだから作曲家の決定稿というものの存在意味をあらためて思う。

多くの音楽愛好家は、モーツァルトを優美で軽やかで流麗で浮遊するような音楽を書いた人だと思っている。彼らは砂糖や卵白でできているかのように見えるモーツァルトの胸像や肖像画を愛好する。しかし、これほど間違っていることはない! モーツァルトは激情に満ち、情熱に満ち、全ての小節が—もしこう言ってよければ—ドラマで一杯なのである。
フェレンツ・フリッチャイ著/フリードリヒ・ヘルツフェルト編/野口剛夫(訳・編)「伝説の指揮者 フェレンツ・フリッチャイ 自伝・音楽論・讃辞・記録・写真」(アルファベータブックス)P42

フリッチャイはそう書くが、少なくともここでの演奏では激情や情熱は横に置き、ハスキルの伴奏者、黒子としての伴奏に徹しているようだ。

第2楽章ラルゲットの完全な美しさに感無量。

ハスキル フリッチャイ指揮ベルリン・フィル モーツァルト ピアノ協奏曲第19番K.459(1955.9録音)ほか ハスキル&フリッチャイ指揮RIAS響のモーツァルトK.466(1954.1録音)ほかを聴いて思ふ ハスキル&フリッチャイ指揮RIAS響のモーツァルトK.466(1954.1録音)ほかを聴いて思ふ

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