クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管 ベートーヴェン第7番(1968.10録音)ほかを聴いて思ふ

何だか精神安定剤の如し。
決してぶれることのない堂々たる表現は、荘厳な老爺となったオットー・クレンペラーゆえの、なせる業。内側でめらめらと燃える、信じられないようなこのパッション、色気は一体どこから来るものなのか。

ワーグナーをして「舞踏の聖化」と言わしめたベートーヴェンの傑作。
初めて耳にしたとき、あまりの強烈な遅いテンポに、どちらかというと僕は拒否反応を覚えた。巨大過ぎる解釈に集中力が持たなかった。しかし、あれから40年近く、今は違う。特に、終楽章アレグロ・コン・ブリオの牛歩のような足取りに、僕は永遠の「聖化」を見る。この透明感、この高貴さは、他の人間的なあらゆる演奏を凌駕する。

有無を言わさぬ絶対的統一感。それこそ「和」というものの象徴になるのではないかと思われる美しさと、巨大なエネルギーの奔流。黙って聴け、繰り返し聴け、と僕は言いたい。

ベートーヴェン:
・歌劇「フィデリオ」序曲作品72b(1962.2録音)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団
・交響曲第7番イ長調作品92(1968.10録音)
・バレエ音楽「プロメテウスの創造物」作品43~序曲(1969.10録音)
・バレエ音楽「プロメテウスの創造物」作品43~アダージョ―アンダンテ(1969.10録音)
・バレエ音楽「プロメテウスの創造物」作品43~フィナーレ(1969.10録音)
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

「プロメテウスの創造物」諸曲の、可憐とは言えぬが、何という深遠な美しさ。
アダージョ―アンダンテは、老境の巨匠の、現世へのお別れの辞のような音。その妙なる響きに言葉を失う。そして、フィナーレの想像を絶する生命力は、一度死を迎えたものを蘇らせるだろう力を秘める。

クレンペラーの一連のベートーヴェン録音に通底する熱と光。例えば、交響曲第7番第1楽章ポコ・ソステヌート―ヴィヴァーチェの陽の気、同時に(沈思黙考)第2楽章アレグレットの霊妙な陰の気。最高だ。
ちなみに、「フィデリオ」序曲も、それに勝るとも劣らぬ強烈なパワーを発する。

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7 COMMENTS

ナカタ ヒロコ

このCDを聴いてみました。遅いですね。クレンペラーが7番を録音したCDが3枚入っています。1955年、1960年、1968年。年を追うごとに遅くなっていますね。35分、41分、43分というように。(ジンマンの演奏が37分なので、クレンペラーの初回はもっと速いんですね。繰り返しのことがよく分からないので一概には比べられないかもしれませんが。)年を重ねるとスピードが遅くなるのは、人間の心身と呼応しているのでしょうか。(グールドのゴールドベルクも晩年のはとても遅かったですね。)本当に堂々としてゆるぎない演奏です。それにしても、クレンペラーは7番がお気に入りだったのでしょうか?3回も録音しているとは。例の1812年に完成しているだけあって、高揚感が尋常ではありません。「秘密調査員ベートーヴェン」を読んでから聴くと、旧体制が打倒されて、新しい市民の自由な世の中の到来を高らかに歌い上げているように聞こえます。ワーグナーが「舞踏の聖化」、ウェーバーが「狂っている。」と言い、ワインガルトナーという指揮者は「精神的な疲労を一番感じる」と言っているそうですが、特に2楽章は神がかり的な感動というか、畏怖を感じます。奇跡的な音楽のように思えます。
因みに、一期一会の癒しのフルートの部分は、1955年録音のものが好みに近いように感じました。クレンペラーの7番を聴く機会を、ありがとうございました。

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岡本 浩和

>ナカタ ヒロコ 様

年齢を重ねるごとに表現が深くなり、呼吸も同じく深くなっていますよね。確かに(災難続きだった)クレンペラーの場合は心身と呼応しているかもしれません。ちなみに、晩年の朝比奈隆の演奏は吃驚するくらい若々しく、テンポも速くなっていきましたから年齢との相関関係は必ずしも・・・です。時間の関係でジンマン盤を詳細にチェックできていないのですが、間違いなくすべての反復を行なっているでしょうから、その分時間がかかっているのだと思います。感覚的には実質は30分くらいかもですね。
おっしゃるように第2楽章は絶品ですね!55年盤も60年盤も、またこの68年盤もいずれも「超」のつく名演だと思いますが、個人的には68年盤が僕の好みです。

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ナカタ ヒロコ

岡本 浩和 様

 年齢とはあまり関係ないようですね。興味深いお話をありがとうございました。
 改めてクレンペラーの68年の2楽章を聴いてみました。圧倒的な凄みです。弱音と強音の差も大きくなっています。『霊妙な陰の気』のせいか死の世界に誘われているような気もします。クレンペラーが晩年に到達した境地はどんなだったのでしょう。
 ところで、一つ疑問が・・・この2楽章は、引き延ばされた弦楽器の合奏で終わるのが聴きなれていると思うのですが、クレンペラーはどの録音も弦楽器のピチカートで終わっているのですが、なぜでしょうか?使っている楽譜が違うのでしょうか?関係ないことを持ち出してすみません。

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岡本 浩和

>ナカタ ヒロコ 様

クレンペラーは、晩年は間違いなく黄泉の国に片足を突っ込んでいますよね。そもそも俗物ですから、悟りの境地にまでは至っていないと思いますが・・・。(笑)
ご質問のアレグレットの終止形は、スコアではアルコなので指揮者の改変だということです。
以下、参考にしてください。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1112429836

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ナカタ ヒロコ

 岡本 浩和 様
 ものすごく詳しい解説を見つけてくださり、ありがとうございました。面白かったです!楽譜になくても指揮者は自分の判断でいろいろと工夫することがわかりました。
 他のことで恐縮ですが、この度ミサ・ソレムニスや7番の2楽章を聴いていて一つ思った事は、フーガの威力についてです。(何を今さら、かも)ミサ・ソレムニスのクレド他のフーガ、7番2楽章の中に出てくるフーガを聴くと、がぜん厳かで格調高い雰囲気が醸し出され、感動を覚えるのですが、同意してくださるでしょうか?  交響曲3番の「葬送行進曲」、ピアノソナタ31番の終楽章などのフーガも同様です。もちろん、バッハの作品もそうですが、フーガにはそう感じさせる要素があるのでしょうか? お忙しいのにすみません。
 

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岡本 浩和

>ナカタ ヒロコ 様

モーツァルトもベートーヴェンも、あるいは後世のシューマン、ブルックナー、ブラームスなど、錚々たる天才たちが皆フーガを研究し、創作に反映、それらがまた最高の形で残されているのをみると、フーガは、音楽の中でも最上の形式なのだろうと僕は思います。ナカタ様と同じく、僕もフーガについてはどの作曲家のものも厳粛で、崇高で、この世のものとは思えぬ香気を感じます。
https://classic.opus-3.net/blog/?p=14927

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