ファーレル バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル ワーグナー「ブリュンヒルデの自己犠牲」(1961.9.30録音)ほかを聴いて思ふ

ああ、すべての契約の保護者たる
天上の神々よ、
この塗炭の苦しみに
眼差しを注ぎ、
あなたたちの永劫の科を見て取るがいい!
私の告発を聞きなさい、
神々の長ヴォータンよ!
彼に望みをかけた
余人の為しあたわぬ勲だったのに、
それを果たした勇士は
あなたに降りかかった呪いを
われとわが身にかぶってしまった。
あの純粋無垢な人は
私を裏切るはめになり、
それによって、この女も悟りを開いたのです。

日本ワーグナー協会監修/三光長治/高辻知義/三宅幸夫編訳「神々の黄昏」(白水社)P135

ブリュンヒルデの最後の裁きの言葉に背筋が凍る。
悟りを得た女の荘厳な魂の「音」を、艶やかな伸びのある歌唱によってアイリーン・ファーレルは見事に描く。

冷房の効かない真夏のバイロイト祝祭劇場は、そのときばかり世界中から終結するワグネリアンの熱気にも包まれ、蒸せるばかりの暑さらしい。それでも彼らは壮絶な熱狂のもと、ワーグナーの神聖なる楽劇に無心で寄り添うそうだ。
晩年の、演奏会形式による、あまりに粘着質でありながら呼吸深く律動正しい「トリスタンとイゾルデ」の名演奏を聴くたびに、バーンスタインが「ニーベルングの指環」のディスクを残してくれなかったことを残念に思う。1961年録音の、ファーレルの独唱を伴った、「黄昏」終幕の「ブリュンヒルデの自己犠牲」が超のつく名演奏であるがゆえになおさら。

ワーグナー:
・歌劇「タンホイザー」序曲(1967.10.26録音)
・楽劇「神々の黄昏」第3幕「ブリュンヒルデの自己犠牲」(1961.9.30録音)
・マティルデ・ヴェーゼンドンクによる5つの詩(フェリックス・モットル編)(1961.9.30録音)
・楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(1967.5.9&20録音)
アイリーン・ファーレル(ソプラノ)
レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック

マティルデが「トリスタン」の台本に感銘を受けて書いた5つの詩にワーグナーが音楽を付した「ヴェーゼンドンク歌曲集」もまた美しい(第5曲「夢」の官能!)。

なんとすばらしい夢が私の心をかこんでいることか。
ひとときごと、一日ごとに美しく輝き、天の知らせによって幸福を心に満たす夢。

「作曲家別名曲解説ライブラリー②ワーグナー」(音楽之友社)P196

続いて収録された(録音時期は異なるがこの並びが見事にエロスを掻き立てる)「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死は、管弦楽による忘我の愛撫さながらバーンスタインの真骨頂。

ところで、かれこれ40年ほど前になるが、初めて「ブリュンヒルデの自己犠牲」を聴いたとき、僕は一辺にその毒にはまってしまった。フルトヴェングラーの伴奏でフィッシャー=ディースカウが歌った「さすらう若人の歌」目当てで購入したアナログ盤のB面、キルステン・フラグスタートが歌ったものだった。それは、今でも僕の座右の音盤だけれど、まさにそれに匹敵する「自己犠牲」だと思う。陽の気強い(アポロン的?)バーンスタインの表現に対し、陰の気発する(ディオニュソス的?)フルトヴェングラーの表現。

ワーグナー:
・楽劇「神々の黄昏」第1幕ジークフリートのラインへの旅(1949.2.23録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
・舞台神聖祝典劇「パルジファル」第1幕前奏曲と第3幕聖金曜日の不思議(1938.3.15録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(1938.2.11録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・楽劇「神々の黄昏」第3幕「ブリュンヒルデの自己犠牲」(1952.6.23録音)
キルステン・フラグスタート(ソプラノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管弦楽団

「パルジファル」の音楽も「トリスタン」の音楽も、フルトヴェングラーの演奏はまるで魔法のようだ。

すでに1876年の夏、最初の祝祭劇のときの真っただなかで、私はひそかにヴァーグナーから別れを告げていた。私はいかなる曖昧なものとも折合いがつかない。ヴァーグナーがドイツへ帰って以来、彼は、私が軽蔑した一切のものへと一歩一歩屈していった—反ユダヤ主義へすら・・・事実、当時こそ別れを告げるのにもってこいの時期であった。ただちに私はその証拠を手中にしたのである。一見このうえなく勝ち誇った者のごとくみえるが、その実は一箇の朽ちはてた絶望的なデカダンにほかならないリヒアルト・ヴァーグナーが、突如として、途方に暮れて、破綻してキリスト教の十字架のまえにひざまずいた・・・いったい誰ひとりとしてドイツ人は、当時、この身の毛もよだつ光景に対して、頭のうちにはそれを見ぬく眼を、おのれの良心のうちにはそれを憐れむ同情をもっていなかったのであろうか?
「いかにして私はヴァーグナーから離れたか」
原佑訳/ニーチェ全集14「偶像の黄昏・反キリスト者」(ちくま学芸文庫)P371-372

すべてはニーチェの誤解であるように僕は思うのだが。

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