
マタチッチ最後の録音。
人は思考する生き物である。思考とはいわば癖であり、性格や性質を形成する要素の一つでもある。「最後の」という接頭辞がつくだけでどうも有難がるのが人間の性というものだ。
正直多少散漫な印象は拭えない。しかし、60年代の、全盛期にチェコ・フィルと成し遂げた有名な録音を凌ぐ箇所も決して多くはないがある。遅いテンポの中で、ほんのわずかな揺れもありながら、マタチッチがブルックナーを「感じている」のが手に取るようにわかる。
第1楽章アレグロ・モデラートは、悠々たるテンポで開始される。第1主題から音楽は開放的に、外に向かって発せられる。音の強弱にも敏感で、特に弱音の際の何とも言葉にならない寂寥感が最晩年のマタチッチの心境を映すようだ。そして、静謐で大人しい孤高の響きを創出せんとする第2楽章アダージョのクライマックスにおいて打楽器は不要な気もするが、マタチッチの思念たるや決して煩さを感じさせない境地にあるのだろう、むしろ壮絶な、動的瞑想として機能するのである。続く深淵なるコーダの哀しみよ。
たぶん君は知らんだろうが、アダージョ(ハ長調の四六の和音のところ)にシンバルとトライアングルとティンパニの、待望の一撃を断固付け加えて、私たちをひどく喜ばせたのは、ニキシュなんだ。
(1885年1月10日付、ヨーゼフ・シャルク宛)
~田代櫂「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」(春秋社)P207
ブルックナーの鷹揚な側面が垣間見える愛らしい(?)エピソードだと僕は思う。
第3楽章スケルツォは何とも人間的。俗人、野人ブルックナーの真骨頂、あるいは、マタチッチの「らしさ」全開の再生だ。さらに、終楽章の荒々しさは、指揮者の興奮と生命力の投影か。それにしても素晴らしいのは、断片とはいえ第3楽章スケルツォのリハーサル風景だ。
フルートは、もう少しディミヌエンド、そしてピアノ。
ここは一つの幻景です、美しい自然です。それから後にもう1度、あの悪魔のスケルツォが来るのです。
(田中一生翻訳/岡田幸子協力)
~COCQ-84428ライナーノーツ
トリオの優美さをマタチッチはそのように表現した。実に的を射たいかにも老巨匠らしい言葉だ。
ギュンター・ヴァントは今もってミュンヘンだろうがケルンだろうがベルリンだろうが北ドイツ放響だろうがつゆほども受け付けませんが個人的に朝比奈とマタチッチが残したブルックナーはいつ聴いても身体ごと持っていかれます
>老究の散策クラシック限定篇様
ありがとうございます。朝比奈とマタチッチに共通するのは細かいところを気にしないような野人的愚直さで、それはブルックナーその人の性格性質にも似ていて、そういう素養が意識を超えて音楽に反映されるのかもしれませんね。ヴァントはその意味では紳士過ぎるのでしょうか。
しかし、最後の来日公演での第9番の、それこそ身体ごともっていかれた経験から思うに、ブルックナーに共感していたという点で朝比奈やマタチッチと同類だと僕には思えます。あくまで個人的見解ですが(いろいろ感じ方があって当然ですので)。