仏教の教えの一つである「定力(じょうりき)」という言葉を教えていただいた。理不尽な行為、例えば濡れ衣を着せられた時も一切言い訳をしたり弁明をしたりしない時にしか得られない力らしい。お金や名声がいくらあろうともこの「定力」がないと最後は物事を動かすことができないのだという。聴いた瞬間は今一つ腑に落ちなかった。ある人はそれを「覚悟」だという。「二元論に捉われないこと」だともいう。なるほどそういうものかと考えるが、それでも完全に理解したとは言い難い。
帰ってからいろいろ調べてみると、仏教では「0(ゼロ)」-つまり「空(くう)」という安定した状態のことを「定」と表現するのだということがわかった。多過ぎず少な過ぎず、最もバランスの良い状態、それは「軸」をしっかりとさせ、そこに向かって懸命に動く続けることなのだということがぼんやりとだが見えてくる。状態をありのままに受け入れるということか・・・。非常に難しいことだが、人間の永遠のテーマだろうと考えた。
そういえば昨日もトリートメント中にMさんからいくつかアドバイスをもらった。何もせず自然の流れに任せばそれでいいのかというとそうではない。少なくとも自分のアイデンティティは貫き、言うべきことは言って能動的な動きをしないと何も動かない。そしてその最後に必要となってくる力がこの「定力」なのだろう。つながった。
最晩年のフルトヴェングラーはまさにこの「定力」をもっていた状態なのかもしれない。難聴に悩み、明らかに体力の衰えが目立つ中、彼が紡ぎ出す音楽の質はますます「空」という境地に近づき、聴く者の心を捕らえて離さない。決して熱過ぎず、かといって理性に傾くこともなく、信じられないようなバランスで過去の大家の残した音楽が再創造されてゆく。
ブラームス:交響曲第3番ヘ長調作品90(1954.4.27Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
フルトヴェングラーが指揮したブラームスの第3交響曲では1949年のLive盤がつとに有名だ。確かにこの演奏ほど指揮者が理性を乗り越えてしまったような「熱い」(ブラームスの生み出したスコアとがっぷり四つに組んでの闘争心丸出しの)演奏はフルトヴェングラーの数多ある演奏の中でも一、二を争うものだろう。しかし、何度も聴くうちに我を忘れるほどの没入具合がある時には耳障りにもなってしまい、ブラームスを聴くというよりはフルトヴェングラーを聴くという行為になってしまうという側面もあわせもっていることは事実だ。もしもこの49年盤の欠点を挙げるとするなら、そういう部分だろう。そしてその欠点を補うような形で存在しているのが今日取り出した1954年盤なのだ。
明らかにフルトヴェングラーの指揮なのだが、そこにはフルトヴェングラーはいない。あくまでブラームスの創造した音が理想の形で純粋に鳴っているのだ。死の7ヶ月前に巨匠が辿り着いた至高の境地。
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