
世界の根源は、鼓動であり、またリズムだ。
また、そこにはゆらぎがあり、個のすべてが違った鼓動、リズムに支配されている。なぜ人は共鳴し、感動するのか。
このここに異なる微妙なゆらぎこそが、大きな鍵なのだと思う。
昨年、加藤訓子の単独パフォーマンスである”Drumming”を聴いたとき、ライヒの意図するものを見事に一人でなし遂げている、彼女の懸命な姿に僕はとても感動した。何と刺激的だったことか。そして、何て温かかったことか。
最初の録音を聴いた。
複数の奏者によって演奏される「ドラミング」には、人間であるがゆえの絶妙な揺れと温かさが表現される。何という共感。
《ドラミング》は、私の音楽実践のなかで、位相技法—2つまたは3つの同一楽器で同じメロディ・パターンを同時に反復し、このいわばシンクロしている状態から少しずつパターンをずらしていくという技法—を磨きあげていった、その最終地点にあるような作品である。
スティーヴ・ライヒ/川西真理訳
~PROC-2218/19ライナーノーツ
1970年のアフリカ訪問は、ライヒの「アコースティックな生楽器と声のほうが、電子楽器よりも豊かで本物の響きをもった音楽を作り出せるだろう」という直観の確認だったと言う。休みなく1時間半にわたって繰り広げられる、打楽器と声のアンサンブルは衝撃であり、同時に癒しだ。間違いなくここには愛があると僕は思う。
執拗なパターンの繰り返しこそライヒの神髄。
「6台のピアノ」は、意識を集中して身を浸せば、音の洪水の中にあって自身の魂の汚れを洗い流せる効果に満ちるように思われる。
他の奏者(あるいは奏者達)が別のリズム・ポジションで予め反復しているパターンに対するという関係でプロセスが進行し、最後には、同一のパターンが一拍以上ずれた位相であい対し合うことになる。音の結果は、これまでの私の作品に似てはいるけれども、そこに至るまでのプロセスは今までにはないものだ。位相関係をゆっくりとすらしていくのではなく、打楽器のように休みのところで鍵盤を叩き、パターンを作りあげていくのである。
スティーヴ・ライヒ/川西真理訳
~同上ライナーノーツ
互いが互いの音を徹底的に聴き合わねば成り立たない画期的手法。感動だ。
そして、同時期に作曲された「マレット楽器、声とオルガンのための音楽」は、冒頭のメロディがマイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」を髣髴とさせるもの。冷たさの中に浮き上がる声に何とも不思議な感覚、生命の尊さを喚起する。
[…] スティーヴ・ライヒの音楽の原点の一つにジョン・コルトレーンがあった。 […]