
セゾン・グループの会長であり、詩人でもあった辻井喬さんは、かつて「私のなかのモーツァルト」と題するエッセーの中で次のように書いた。
音楽について何か書くこと、語ることに何ほどの意味があるだろうか。
聴いて感じる、聴いて考える、聴いて思い描くことで充分であり、なおその上にそれについて語ることは、総ての信条の告白、愛の告白と同じように、情緒過多になったり或いは啓蒙的な口調になることによって、読む人を白々しい気分にしてしまうのではないか。ことに、それがモーツァルトのこととなれば尚更である。
~「私のモーツァルト」(共同通信社)P232
12年余りにわたって綴って来た本ブログにおいて、モーツァルトのことを書いた記事は多い。何とも耳の痛い話である。
確かに辻井さんがおっしゃるように、聴いて感じ、考えればそれで充分であることは間違いない。しかし、決して強要することなく、自身の思考や感情を明文化することはとても重要であり、音楽がコミュニケーションであるとするなら、自分が聴いて感じたこと、考えたことを(誰かに)共有することは一層大事なことだと僕は思って、今日もまた書く。
最晩年のモーツァルトの足跡を辿ることは、表面的には容易い。
ただし、手紙の類をどれほど精査して読み込んでも、彼の本音はやっぱり見えてこない。借金を重ねたプフベルク宛の書簡ですら、どこか作りごとのように見えるゆえ。
モーツァルトはまさにパラレル・ワールドに生きていたのだと思う。
生活をするモーツァルト(俗物モーツァルト)と音楽家、あるいは創造者たるモーツァルト(聖なるモーツァルト)はそもそも別次元の人格なのだ。
深い感動を与えてくれる、苦悩のモーツァルト。
例えば、変ロ長調K.589第1楽章アレグロの溌剌たる旋律の勢いを聴くにつけ、やはり作曲家モーツァルトは別のところにいる。筆舌に尽くし難い美しさと深遠さ。時間と空間を超えて魂にまで響く音の綴れ織り。すべてに哀感漂う。もちろんそこには愉悦もある。アルバン・ベルク四重奏団のアンサンブルは鉄壁だ。
ちなみに、同じく詩人の宗左近さんは、「モーツァルトの花」と題するエッセーの中で次のように書く。
モーツァルトについては、ひどくしゃべりにくい。あまりにも数多くの輝かしい個性が、200年にもわたって述べたてすぎている。ヴァレリーがスタンダールについて書いたところをもじって、モーツァルトについて語れば際限がない、これにまさる賛辞があろうか、そういったなり後は口をつぐんでいるに越したことはない。
~同上書P188
モーツァルトについて書くことには、やはり限界がある。
ただひたすらその音楽を素直に享受するのみだ。