ツィマーマン ラトル指揮ベルリン・フィル ブラームス ピアノ協奏曲第1番(2003.9&2004.12録音)

巨匠バーンスタインの掌の上で堂々と、そして自由に羽ばたく若きツィマーマンは、何だか青年ヨハネス・ブラームスの姿容と被る。指揮者の重厚なテンポを維持しながら、何とピュアなピアノの音色。そこにはブラームスの魂の叫びが刻まれていた。

今すぐにでも戻りたいのです。そしてこの夏、二度と再びデュッセルドルフを離れようなどとは思いません。貴女と一緒にいて、貴女と一緒に演奏するあの生き生きと感動的な時間。あなたの愛する夫の知らせ。ああ、どうしてほんの短いあいだでもそれなしにいられることができましょう・・・私はしばしば自分自身と闘っています。つまりクライスラーとブラームスが闘っているのです。普段ならば二人とも自己の確固とした主張を持ち、それを貫き通すのですが、今回は二人とも完全に当惑してしまって、何を求めているのかわからなくなってしまいました。まったく滑稽な限りです。それに、私の目にはまさに涙が浮かんできそうになったのです。
(1854年8月5日付、旅先からクララ・シューマン宛)
三宅幸夫「カラー版作曲家の生涯 ブラームス」(新潮文庫)P54

青年ヨハネスの恋心(?)が熱く燃えている。心のすべてを吐露する切なさは、見事に音楽にも投影される。第2楽章アダージョの恍惚。俗っぽい官能が垣間見えるバーンスタインの伴奏は、ある意味感情過多とも言えまいか。

クリスティアン・ツィマーマンがサイモン・ラトルと録音した新しい方の演奏では、第2楽章アダージョはもっと透明だ。色香を排し、ただひたすらブラームスの純真な心を描こうとするラトルの業。

・ブラームス:ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15
クリスティアン・ツィマーマン(ピアノ)
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2003.9&2004.12録音)

第1楽章マエストーソに関しては、新旧両方の演奏は拮抗する。どちらかというと思念深い、濃厚なバーンスタインに対して(そこでは指揮者の解釈が主体となる)、ピアニスト自らが主となって音楽を作り、同時に指揮者とオーケストラが一体となる妙味(これぞ三位一体の奇蹟!とまで言うと言い過ぎか)。あるいは、この火花散るパッションは、偉大なる緩徐楽章を経て終楽章ロンドにまで阿吽の呼吸で引き継がれる。

何かの花が咲きこぼれるように、音楽のなかから感情が舞い落ちてくることがある。抑えて、抑えていたはずの気持ちが、どうしたことか、一瞬、枠をはずれ、姿を見せる。もともと音楽自体が感情を表すものだとしても、不意に聞こえてきたそれらの音には、やはり、こぼれおちたからこそ見える花の後ろ姿がある。
「こぼれ落ちる音」
梅津時比古「フェルメールの音—音楽の彼方にあるものに」(東京書籍)P20

この曲を評して梅津時比古さんは何と上手に表現されることか。
ブラームスの抑圧された恋の苦悩があちこちに反映される。開けっ広げで外向的なバーンスタインに対して内向的なラトル。嗚呼、美しき哉。

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