どうしてこれほどに素晴らしい作品がほとんど無視されているような状況なのか?とにかく慈愛に満ちるのだ。それでいて他人の痛みにも共感できる苦悩をあわせもつとでもいうか。
音楽史の中でフェリックス・メンデルスゾーンの立ち位置というのはとても微妙。今でこそ研究も進み、相応の評価はされてきているのだろうが、それでも一般的な人気という意味では、そして舞台にかけられる数という意味ではまだまだ。室内楽作品に限らず、ピアノ曲も声楽曲も、あるいは少年期の習作も・・・、もっと実演で聴いてみたい。
メンデルスゾーンの師であるツェルターにゲーテが語ったという有名な言葉がある。
この少年に備わった天賦の独創性、また初見で楽譜をやすやすと読み取る能力は非凡であり、私にはこのような子供にそんなことができるとはとても信じられない。君の弟子はかつて実際やってのけたという少年モーツァルトに比べられるだろう。フェリックスはすでに大人の言語を持っており、それは子供の未熟な片言ではない。
~レミ・ジャコブ著・作田清訳「メンデルスゾーン」P57
ゲーテは神童モーツァルトと比較し、「天賦」と言い切っている。老巨匠の目に狂いはあるまいが、それでも僕はメンデルスゾーンの場合、それに付け加え、幼年期からの弛まぬ努力あってこその賜物だと思うのだ。
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者として飛ぶ鳥を落とす勢いだったあの頃の弦楽四重奏曲。愉快でありながら哀愁に溢れ、哀しい旋律に寄り添いながら実にユーモアに満ちる瞬間こそメンデルスゾーンの真骨頂。作品44-3の第3楽章アダージョの虚ろで愛らしい音調に心奪われ、続くフィナーレの、一転明快な表情に身体が自然と動く。
まさにファウストのあの一言に通じる。
今この瞬間、わたしはこう言わずにはいられない。
すべてよ止まれ、おまえはこの上なく美しいと!
わたしのこの世の生きざまの痕跡は
未来永劫消えることはないだろう―
そのような至福のときを予感しつつ
わたしはこの至高の一瞬を享受している。
しかし、この言葉においてファウストはメフィストフェレスに魂を売ったのだ。
メフィストフェレスは言う。
この男はどんな快楽にも飽きず、どんな幸福にも満たされず、
そのときどきの欲望を追い求めた。
この哀れな男は最後の、ひどい、空っぽの瞬間に、
自分のすべてを賭けようとした。
(喜多尾道冬訳)
音楽には神も悪魔も宿る。フェリックス・メンデルスゾーンの音楽にもだ。
メンデルスゾーン:
・弦楽四重奏曲第3番ニ長調作品44-1
・弦楽四重奏曲第4番ホ短調作品44-2
・弦楽四重奏曲第5番変ホ長調作品44-3
ケルビーニ四重奏団
クリストフ・ポッペン(ヴァイオリン)
ヘラルド・シェーネヴェーク(ヴァイオリン)
ハリオルフ・シュリヒティヒ(ヴィオラ)
マヌエル・フィッシャー=ディースカウ(チェロ)
ケルビーニ四重奏団の音は柔らかく溶け合い、しかもそれぞれの楽器に芯の太さがあり、メンデルスゾーンに打ってつけ。
グスタフ・アッシェンバハの、初めてタッジオに会った時の讃辞、描写を思い出した。
ギリシャ芸術最盛期の彫刻作品を思わせたし、しかも形式の完璧にもかかわらず、そこには強く個性的な魅力もあって、アッシェンバハは自然の世界にも芸術の世界にもこれほど成功した作品は見たことがないと思ったほどであった。
トーマス・マン著・圓子修平訳「ベニスに死す」(集英社文庫)P46-47
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メンデルスゾーン研究が進まなかった最大の理由は、1933年から1945年までのナチズムです。ヒトラーのユダヤ人迫害、ホロコースト、文化面でのユダヤ人追放でした。そのため、メンデルスゾーン再評価が進まなかったことにあります。
今、メンデルスゾーンはどの分野でも少しずつ再評価が進んできていますから、これからどんな形で演奏されていくかが楽しみですね。
>畑山千恵子様
ナチスについてはおっしゃる通りなんでしょうね。
しかし、再評価含めてこれからの楽しみが増えるということでそれも良しだと思います。