「時」を見出すプロセスを詳細に論じながら物語は進む。
結果的に、一冊の書物を書こうと決意するところで終わるのが読者の好奇心を煽り、実に興味深い。
これとは別の種類のイメージ、すなわち回想のイメージにかんしてでさえ、私は知っていたのだ、バルベックの美しさはそこにいるときには見出せなかったばかりか、またバルベックが私の思い出に残してくれた美しさでさえ、もはや二度目の滞在では見出せなかったことを。私は自分の内奥にあるものに現実では到達できないことを、あまりにも経験してしまった。私には分かっていた、私が失われた〈時〉を見出すのは、サン=マルコ広場においてではないことを。それはかつてバルベックへの二度目の旅行のときにも、ジルベルトに会いにタンソンヴィルに戻ったときにも、失われた〈時〉を見出さなかったのと同じことだ。
~マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて12第七篇 見出された時1 1」(集英社文庫)P385-386
現実では到達できないものだと真に受け入れることができたとき、逆に人は「時」を見出すものなのかどうか。形而上の、無意識の中にこそ真実があるのだろうと思う。形のない音楽などはまさに無意識の中の真実を喚起する、抽象から具体を創造する最たるものなのではないかと僕は思った。
時は世界大戦直後。アルベール・ルーセルの交響曲第2番の仄暗い官能には、ストラヴィンスキーを髣髴とさせる目には見えない密かな喜びがあろう。あるいは、交響詩「春の祭りに寄せて」の蠢く生命力の妙。何と生き生きと血の通った音楽か。そして、短いファンファーレは実に土俗的でありながらソフィスティケートされた美しさに溢れる。
躍動的な組曲の悲しみよ。また最後のコンセールの、昔話をなぞるかのような激しくも懐かしい明快な歌に心が動く。それがフランスというものだ。
この失われた祖国、音楽家たちはそれを記憶しているわけではないが、どの音楽家も無意識のうちに常にこの祖国とある調和を保っている。祖国に従って歌うとき、音楽家は喜びのあまり熱狂する。ときには栄光への愛にかられて祖国を裏切ることもあるが、そのとき彼は栄光を求めて真の栄光を避けているのであり、逆に栄光を軽蔑してのみ彼は真の栄光を見出すことになる。そのようなとき彼は、どんな主題を扱おうとも、一つの特異な歌を口ずさむことになるが、その歌の単調さこそは—扱う主題がなんであれ、彼は自分自身に一致しているのだから単調になるはずだ—音楽家の魂を構成する要素が不動のものであることを証明している。
~マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて10第五篇 囚われの女2」(集英社文庫)P96-97
1922年11月18日、マルセル・プルースト没。大著「失われた時を求めて」はついに未完に終わった。