シャルル・ミュンシュの初来日は、ボストン交響楽団を伴っての1960年のこと。
日本での初の音出しは5月4日夜、東京・内幸町にあった旧NHKホール(放送用の小ぶりなホールだったが、音響は素晴らしかった)で、ラジオとテレビの同時公開生放送、一般公演前の、NHKの放送のための演奏会であった。曲目はベートーヴェン《英雄交響曲》とラヴェルのバレエ《ダフニスとクロエ》第2組曲。この演奏を筆者はテレビでリアルタイムに聴いたのか、後に何かの特別番組で聴いたのか、今となっては判然としないが、とにかく呆然・啞然とするような圧倒的な迫力の名演だった。
(近藤憲一)
~「伝説のクラシックライヴ—収録現場からみた20世紀の名演奏家」(TOKYO FM出版)P43
ライヴのミュンシュの演奏は、いつでも集中力漲る、緊迫感溢れるものだ。
その片鱗は確かにスタジオ録音にも窺える。しかしながら、ひとたびミュンシュの実況録音盤に触れれば、いかに彼が実演の人だったかということが手に取るようにわかる。
ミュンシュ&ボストン響の初来日公演は、日本の楽壇に鮮烈な印象を残した。聴衆に激震とも呼べる高揚感を与えたのはもちろん、ミュンシュの指揮であった。彼は美しい銀髪の、年齢的には70歳の老人だったが、指揮ぶりは驚くほど若々しくダイナミックだった。彼の芸術の本領は、圧倒的な臨場感にあった。指揮ぶりには激烈なパトスの噴出といった趣があり、本番に凄味あふれる、音楽を燃焼しつくすような壮絶な名演を披露した。
(近藤憲一)
~同上書P44
シャルル・ミュンシュに対する手放しの絶賛は、一聴納得できるもの。
渾身の「エロイカ」交響曲。第1楽章アレグロ・コン・ブリオ冒頭の2つの和音から実に脱力の演奏。そして、主題提示からのノリの良い演奏は、文字通り「圧倒的な臨場感」。白眉は思念深いテンポで奏される第2楽章「葬送行進曲」(アダージョ・アッサイ)。中でも、意外とあっさり流しながらも逆に悠久の生命力を湛えるトリオの美しさ。行進曲に戻っての慟哭の様がこの演奏の劇性を一層濃密なものにする。
ちなみに、「フィデリオ」序曲も溌剌としたミュンシュらしい前のめりの名演奏。
「力を抜け、抜け、頭の力も体の力も手の力もみんな抜け」
子供の心をもち、純粋に音楽に生きていたといわれるドイツ系フランス人の指揮者シャルル・ミュンシュ。この言葉は、若き日の小澤征爾にかけたものだ。
ミュンシュの手にかかると、どんなオーケストラの音も、若々しく瑞々しく美しいものとなる。なぜだ? 小澤は、6週間の弟子入りでその秘密にせまった。
ミュンシュは、小難しいことはなにも言わなかった。
ただ、指揮するときに、「力を抜け」となんども言った。小澤の解釈では、「心でしっかりと音楽さえ感じていれば、手は自然に動く」ということだ。
~沢辺有司「音楽家100の言葉」(彩図社)
シャルル・ミュンシュの場合、やはり「脱力」が鍵だ。
懐かしいミュンシュ・ボストンの「英雄」で、うれしくなりおじゃまします。
RCAレコードのベートーヴェンの交響曲シリーズの一つで、ライナー・シカゴの「田園」との2枚組でした。当時はそればかりで他の演奏と聴き比べることはなく、その特徴を感じることはありませんでしたが、愛聴していたので、「圧倒的な迫力の名演」「激烈なパトスの噴出」等と評されていることはとてもうれしいです。私も特に2楽章にノックダウンされていたので、「白眉」と書かれていてうれしいです。今CDで聴いてらどうなのか、試してみたいと思います。ありがとうございました。
>桜成 裕子 様
初めて聴かれたのがミュンシュ指揮ボストン響盤だということでしたので、棚の奥にしまってあったものを取り出して久しぶりに聴いてみました。さすがにミュンシュの棒は激しく、情熱的、そして動的で素晴らしいものだと感じました。
ぜひまたCDで聴かれた感想をお知らせください。
岡本 浩和 様
CDで聴いてみました。やはり「刷り込み」というものなのでしょうか。最初から最後まで何の抵抗もなく自然に耳の中に流れ込んできました。意表をつく音の強弱もなく、テンポの伸縮もなく、曲が自ずと流れるまま、という印象でした。それでいてじわじわとこみ上げる感動がありました。「刷り込み」の影響もあるけど、もしかしたら、ミュンシュの「脱力」と関係があるのでしょうか?!
もうひとつ感心したのはオーケストラのうまさで、弦楽器は美しくふくよかで、管楽器もつややかで奥ゆかしく、聴いていて幸せを感じました。この時ボストン交響楽団員として演奏していた人たちに、ふと興味を憶えました。
少々贔屓が過ぎましたか・・・改めて昔日のLPをCDで聴く機会をくださり、ありがとうございました。