先日の「リーダーシップ研修」は概ね成功だったようで、本夕受講者の方々からのフィードバックを直筆の感想文形式にしていただいた。ひとつひとつのコメントを丁寧に読んでいくと自ずと理解が深まる。人にモノを教示する時、結局それは自分に語っているのである。人は自分の中にあるものでしか他を計れないし、逆に言うと自分を戒めるために他者にアドバイスするのだと思う。ともかくそういう場(つまり自省できる、あるいは気づきを得られる場)を提供していただけたことに感謝しよう。
今日もバランス論になった。他者にモノを教授する前に、足元をしっかりさせねばどうにもならない。自分がどうなりたいのか?あるいはどうしたいのか?自分のこととなると何事も曖昧にしてきた癖がどうにも抜けない。しかし、どうしてこれまで20年近くも人間の土台を磨くセミナーに関わってきたのかと自問すると、答えは「必要としている人が大勢いるのがわかるから」ということと「他者に喜んでいただけることが何より嬉しいと思う」ということになる。具体的イメージ、そして行動、さらに継続である。
ショスタコーヴィチの作品は一つ一つが信仰告白であり、自戒である。スターリン体制という死と隣り合わせの現実の中で、あくまでも自己というアイデンティティを貫き、そして生涯自らの信じる音楽芸術を創造し続けたショスタコーヴィチは偉い(というか、それは独立した人間として当たり前の生き方なのだが)!
ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番ホ短調作品67
アイザック・スターン(ヴァイオリン)
ヨーヨー・マ(チェロ)
エマニュエル・アックス(ピアノ)
現代のカザルス・トリオにもなりえた(否、百万ドルトリオか・・・)、資本主義トリオ(笑)。スターン亡き後、代わりのヴァイオリニストを見つけての復活などありえないと思うが、米国を代表するソリストたちがぶつかり合うソビエト連邦の重鎮ショスタコーヴィチの演奏は力強く、一個人への「悲しみの噴出」というよりはもっと普遍的な「人間への警告」のように鳴り響く。これは自国に限らず全世界へ向けた(自分自身への戒めをも含む)葬送の音楽なのである。こんなにも厳粛で意味深い音楽にはなかなか出逢えないのではと思わせる。
以前にも書いたが、1998年にすみだトリフォニーホールで聴いたアルゲリッチ、クレーメル&マイスキーの3人がコラボレートしたこの曲の演奏が忘れられない。
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