今日は一日オフだったので朝からずーっとショスタコーヴィチ漬け。羨ましがらないでください(笑)。つい30年ほど前に亡くなった音楽家ゆえ残された文献は多岐にわたるので少々の勉強程度ではとても追いつかないし、頭の中でいろいろな考えが錯綜し、なかなかポイントが定まらない・・・。ましてや「鉄のカーテン」といわれた時代にすっぽり収まる人生なので、情報のいちいちが正しいのか間違っているのか正確にはわからないし、音楽というある意味「曖昧な」語法の産物を扱うゆえ捉え方・感じ方は千差万別、答えがないところがこれまたややこしい。当時のソ連という特殊な社会状況とショスタコーヴィチという稀有な天才の生涯を顧みながら、あくまで勝手な自論を掲げて週末の「早わかりクラシック音楽講座」は乗り切ろうと半ば投げやりです。
音楽之友社刊「作曲家別名曲解説ライブラリー・ショスタコーヴィチ」に始まり、春秋社刊「ショスタコーヴィチ大研究」、そして工藤庸介著「ショスタコーヴィチ全作品解読」などを斜め読みし、アナトリー・ヴェデルニコフの演奏する「ピアノ・ソナタ第1番」を聴き、タチアナ・ニコラエーワ奏する「24の前奏曲とフーガ」にしんみりとし、夕食後にはアレクサンドル・ソクーロフ監督作「ショスタコーヴィチ~アルト・ソナタ」まで取り出し、観てしまう始末。
僕のいつもの考え方がそのままショスタコーヴィチにあてはまるのではないかと勝手に考えた。人間のもつ「天才性」というのは一定の「枠」や「掟」の中でこそ「自由」を取り戻さんと飛翔するのではないのか、と。彼の作品は、まさに窮屈なソビエト社会主義という体制の中にあってこそ生まれえた創造物なのではないか、と。人間は自分と正反対の、例えば交わり合えない関係の中にこそ成長し、「真実」を見出せるのではないか、と。
3次元という面倒な世界にあり、はじめて5次元的な「魂」の解放が得られる。つくづくバランスというものが大事なのだと感じさせられる。まことにショスタコーヴィチとは限りなく人間っぽい人間であり、親しみを感じさせてくれるところが数多存在する天才といわれる作曲家の中で群を抜いていると思う。
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品35
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
セルゲイ・ナカリャコフ(トランペット)
アレクサンドル・ヴェデルニコフ指揮スイス・イタリア語放送管弦楽団
前述の「アルト・ソナタ」の中で、ショスタコーヴィチがピアノを奏する自作自演の映像の抜粋がドキュメントされており、それに刺激を受け、取り出した。この楽曲はまるでアルゲリッチのために書かれたようなスリリングな効果満点の音楽だが、期待以上の素晴らしさ!
ほかに「2台のピアノのためのコンチェルティーノイ短調作品94」、「ピアノ五重奏曲ト短調作品57」も収録されている。いずれも超名演!
※株式会社アイエスアイ発刊の「ショスタコーヴィチ&ムラヴィンスキー~時間の終わりに」という写真集が良い。ショスタコーヴィチとムラヴィンスキーというのはやはり終生の友であり、良き解釈者であったのだろうと想像に難くない。いわゆるヴォルコフの「証言」では、作曲者がムラヴィンスキーのことを糞みそに評していることが言及されているが、こういうアルバムを見ると、捏造された(?)文書に思えて仕方がない・・・。
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