朝比奈隆指揮大阪フィル ムソルグスキー「展覧会の絵」ほか(1999.2.21Live)を聴いて思ふ

朝比奈隆の演奏には、不思議な人間味が常に漂う。
情が深いのである。

音楽も人のする仕事だから、人との関係は重要です。
僕は、亡くなった作家の井上靖君と文学部のとき一緒でしたが、彼もふらふらしていました。行くところもなくて入学試験もないからって哲学へ入ってきたんです。
彼は、試験は受けて論文も提出するんですが、教室には3年間一度も出てこなかった。ところが、卒業式に行ったら彼がいたんです。それで「教授にあいさつに行く」と言うんですよ。「顔も見たことないだろ」と言ったら、「いや、卒業するんだから」って。研究室に行って、彼が「井上です」とあいさつすると、先生が「君が井上君か」と言って、喜んで紅茶をいれてくれましたね。
僕はその場面を見て、大学というのはいいところだと思いました。それが大学というもので、出席をとったり点を付けたりするところではない。僕と彼が何を見につけたか知らないが、とにかく大学とはかくあるべき、教授とはかくあるべきという場面を見せてもらいました。

朝比奈隆「指揮者の仕事♯朝比奈隆の交響楽談♭」(実業之日本社)P65

隔世の感がある。
若き日に彼が身をもって体験したことがそのまま音楽に刷り込まれているのだと思う。
また、朝比奈は次のようにも書く。

音楽にとって人との関係が大切なのはもちろんだが、僕の場合は、大阪という土地柄も貴重でした。
あるとき、昔勤めていた阪急に年始のあいさつに行ったら、亡くなった清水雅さん(元阪急百貨店会長)が「お前、まだやってるのか」とおっしゃる。
「そりゃやってますよ。今年で50年目です」と言うと、「お前、こじきにならなくてよかったなあ」って。
というのも、かつて阪急を辞めるときに、心配されて「そんなことをしたら、こじきになる」って忠告されたことがあったんです。
「いやあ、大丈夫ですよ、何とかやります」と答えましたが、それから50年目に「こじきにならなくて・・・」としんみり言われたときには涙が出ました。いま思い出しても涙が出ます。
だから大阪の商売人というのは、仕事では厳しいが、実に温かい。

~同上書P66-67

それだけ若き朝比奈は気概に溢れていたのだと思う。挑戦し、やるべきことを徹底的にやり抜いたゆえの協働であり、また人の慈しみなのである。

なるほど、朝比奈隆の演奏には慈悲がある。

・ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1999.2.21Live)

愛知県芸術劇場コンサートホールでの実況録音は、若々しく、熱気に満ちる好演。朝比奈のロシア物は自家薬籠中のもので、彼の得意とするベートーヴェンやブラームス、ブルックナーの方法と軌を一にする。冒頭プロムナードから輝かしい音色。やはり「カタコンブ」から終曲「キエフの大門」までの朗々たる流れが聴きものだろう(どんな演奏でも大抵感動を喚起する)、土台のしっかりした重厚な響きが、ラヴェルの色彩豊かな管弦楽法を超え、ムソルグスキーの神髄である土臭い音調が魂にまで届く。終演後の、聴衆の熱気を帯びた歓呼はもちろん老練の朝比奈への尊崇の念の表れだが、恐るべき力がこもる大阪フィルのこの演奏そのものへの讃美だろう。

そして、同日のカップリングはドヴォルザークの交響曲第8番。

・ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調作品88
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1999.2.21Live)

大阪と名古屋のファンは何と幸せだったことだろう(3日前の18日の定期演奏会は同プログラム)。珍しくも晩年の朝比奈のムソルグスキーとドヴォルザークを聴けたのだから。第1楽章アレグロ・コン・ブリオの、まるでベートーヴェンのような堂々たる造形にひれ伏す思い。また、第2楽章アダージョの、水も滴る抒情。そして、第3楽章アレグレット・グラツィオーソのしみじみと美しい主題は、さしづめ浪花節。白眉は、終楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ。チェロで歌われる主題の大らかさ、深味。何より音楽そのものが明るく、喜びに溢れる様。やはり終演後の圧倒的拍手がこの日の演奏の素晴らしさを物語る。

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