パレー指揮デトロイト響 ドビュッシー 交響詩「海」(1955.12録音)ほか

演奏会を開くにも、人は協会というものを直ぐに設立するが、そうした協会主催の演奏会には、立場のちがう人びとが集まって、結局は性格のはっきりしないものになりやすい。音楽を勉強しようとすればどうなるか。コンセルヴァトワールに入るか、スコラ・カントルムに入るか、どちらかだ。そういうところでは、バッハのような天才であろうと、ショパンのような才能に恵まれていようと、一定の規則に服従しなければならない。芸術、規則。この二つの語は、いかなる奇跡によって仲良く一つに結ばれたのか。これこそ想像外のことだ。
杉本秀太郎訳「音楽のために ドビュッシー評論集」(白水社)P214

「芸術と尊敬」と題するドビュッシーの小論は、いかに彼が革新を重んじ、日々、自身の創造力を錬磨しようと努力していただろうことがうかがえ、実に興味深い。彼は芸術を「愛および許されたエゴイズムで成り立っている宗教」と定義する。納得だ。

ドビュッシーの音楽は常に新しい。
そして、まるでカルトの(?)宗教のように、一旦理解し、はまれば、生涯離れることのできない力を持つ。その力は、いわば洗脳に近い。

僕がドビュッシーにはまったきっかけは、「前奏曲集」でもなければ、「牧神の午後」でもない。エンマ・バルダック夫人と不倫の恋に陥り、逃避行にまで発展した、それこそ愛および許されたエゴイズムを地でいくような、不貞の最中に書かれた「海」の官能と音楽の偉大さによってである。3つの素描という副題を持つ「海」は、何と壮大で、何と精妙な、色彩豊かな音楽だろうか。

・ドビュッシー:管弦楽のための「映像」第2曲「イベリア」(1955.12録音)
・ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲(1955.12録音)
・ドビュッシー:管弦楽のための3つの交響的素描「海」(1955.12録音)
・ラヴェル:バレエ音楽「マ・メール・ロワ」(1957.3録音)
ポール・パレー指揮デトロイト交響楽団

いかにもフランス風の洗練が前面に出るが、しかし、内側の情熱ほとばしる音響がパレーらしい。パレーは、コンサートでもレコードでも他人のものは一切聴かなかったそうだ。しかしながら、フルトヴェングラー、トスカニーニ、シューリヒト、メンゲルベルクという当時の傑出した天才指揮者たちのコンサートにだけは機会があると足を運んだらしい。アポロとディオニソス、否、フロレスタンとオイゼビウス、あるいは、陰陽相対というべき性質の極致を描く音楽作りを得意とした指揮者が並び、それだけでも、パレーの審美眼が正統であることがうかがえるが、彼のドビュッシーやラヴェルは、実に官能性を表出させた色香漂うもので、心が震える。

それに、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」のメルヘン的飛翔は、天下一品の美しさ。特に、終曲「妖精の国」での、夢見る幻想的音調と、聴く者を魔法の国へと誘う浪漫の力に僕は飛び切り感銘を受ける(とてもアメリカのオーケストラとは思えぬ色彩と緻密な響き)。

ところで、アーサー・M・エーブルは、ブラームスやリヒャルト・シュトラウスらへのインタビューを通じて、天才たちの霊感の源泉について誰ひとりとして同じことを語らないことに着眼し、最後に、シェイクスピアの「ロメオとジュリエット」からの言葉を引用し、次のように書いている。

人間の感情や人間に関わる問題すべての高みや深みを解き明かしたシェイクスピアは、このことを次のように言い表している。

 それらの多くの草木が多くのすぐれた効能を持っており
 なんらかの効能をもたぬものは一つもなく、
 しかも効能は千差万別だ。

アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P259-260

世界にひとりとして同じ人間はおらず、また無駄な人間もいないということだ。
すべてが違って、すべてが正しい。自分の役割を認識し、それをいかに全うするかだろう。

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