ウィーン・フィルならではのウィンナ・ワルツ。
ウィーンのニューイヤー・コンサートは今では世界的な行事になっているけれど、あれは(指揮者が誰であれ)独自の音色を持つウィーン・フィルが演奏するからこその普遍性なんだと思う。
しかし他の芸術的媒体と違って、音楽はそれ自体の持つ民族的原理の矛盾をも明白に刻印する。実際、音楽は一つの普遍的な言語である。といってエスペラントではなく、質的な特質を圧殺することはないのだが、しかし音楽が持つ言語との類似性は、民族に結びつけられてはいない。お互いにきわめて遠く隔たった文化—あのおぞましい複数形を用いるとすれば—文化同士でさえ、音楽的に理解しあうことができる。よい教育を受けても日本人がベートーヴェンをアプリオリに正しく演奏できるはずがない、というのがまったくの迷信であることは証明済みである。それにもかかわらず音楽は市民社会の総体と同様にそれ自身民族的な要素を持っている。その歴史と、その組織形態の歴史は、本質的にいって民族という境界の中で生じた。それは音楽にとって外面的なことではなかった。ものを言う言語に比べて音楽には欠けているもの、すなわち固定した概念の不在のおかげで、音楽は普遍的な性格を得ているのだが—その性格にもかかわらず、音楽は民族的特徴を示した。この特徴が現実化されたということは、音楽を完全に経験することの一部分だったのであり、ひょっとしたら音楽の普遍性そのものの一部だったのである。
~テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント/高辻知義・渡辺健訳「音楽社会学序説」(平凡社)P307-308
アドルノの指摘通り音楽はその中で矛盾をもつ。一つ言えるとするなら、民族性という幻想はあくまで仮のものであり、虚体なんだと思う。一方、音楽そのものこそ普遍的な実体であり、人々は時空を超えそれに感化されるのだ。だからこそ日本人である僕たちにもウィンナ・ワルツは響く。そして感動を与えてくれる。
ウィーン・フィル150周年ボックスからの1セット。リリースから30余年が経過するが、当時は(今から考えると)吃驚するような価格だった。大枚叩いて手に入れたボックス・セットをその後繰り返し聴いたけれど、そのどれもが名指揮者の名盤揃い。中でも大指揮者の競演・饗宴となったウィンナ・ワルツ集の素晴らしさ。ここには(文化の異なる)日本人すらもが共有できる、共感できる美しさと癒しがある。
宇宙的規模、大局観で見てしまえば、民族性というのは実際は「一」であり、真理なんだとつくづく思う。音楽の魔法がここにはある。
ちなみに、傑作「皇帝円舞曲」が珍しく3種収録されている。どれが好みかという野暮なことは言うまい。それぞれに特長ある解釈は、すべてがヨハン・シュトラウスⅡ世であり、民族性を超えた音楽の普遍をもたらすものだ。
レガート満載で、妖しくも官能的なカラヤンの演奏が意外に好みかも(!)