朝比奈隆指揮大阪フィル マーラー 交響曲第9番(1983.2.15Live)を聴いて思ふ

残念ながら僕には朝比奈隆のマーラー第9番を聴くチャンスはなかった。
愚直なまでに音楽の隅々までを丁寧に鳴らし、使徒として追究する志を持っていた朝比奈隆の指揮は、どこかマーラーその人の音楽の在り方に通じるものがある(マーラーには偏執狂的なしつこさがあり、他人を信じない癖があるけれど)。

〈9番〉のフィナーレみたいなすばらしい音楽がほとんど弦楽合奏でしょ、3分の2ぐらいは。
あれ見てたら、マーラーに悪趣味なところがあるなんて夢にも思いませんね。あのハーモニーなんてすごくモダンですしね。第1楽章も含めて、新ヴィーン楽派の和声と変わらないですからね。シェーンベルクは、最初、マーラーの音楽に反発したらしいけれど、後には自ら「マーラーの徒」と言ってます。よく解りますな。アルバン・ベルクはもちろんマーラーを尊敬していたしね。
〈9番〉のアダージョが書ける・・・あれが本性じゃないのかしら。あそこまで、たどり着くのが。
やっぱり、ブルックナーとマーラーというのは、ある意味では―技法的には両極端のような音楽に見えるけれども、〈9番〉のフィナーレを見てれば、やはり行き着くところは同じで、心の中にあったものは、ブルックナーのシンフォニーだったのではないでしょうか。
まあ、自分の最も尊敬した先輩だったと思うのですよ。先生でもある。ブルックナーのスタイルにもうすっかりもどってますからねえ。あのフィナーレをやってるとつくづくそう思いますよ。

金子建志編/解説「朝比奈隆—交響楽の世界」(早稲田出版)P342-343

自身の、内なるシンパシーを露わにする朝比奈隆のマーラー第9番。
当時のオーケストラの技術水準は、現代のものとは明らかに異なるが、技量が不足する分、熱量が半端でない。これほどの荒削りのマーラーは、あるいは、指揮者の深層を赤裸々に同期し、表現するマーラーはなかなかない。

・マーラー:交響曲第9番ニ長調
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1983.2.15Live)

大阪フェスティバルホールでの実況録音。
第1楽章アンダンテ・コモドは、終始、思いがこもる。
第2楽章の音が妙に実存感に富む。あるいは、第3楽章ロンド・ブルレスケが弾け、うねる。しかし、肝心の終楽章アダージョは、確かに今ひとつ興が乗らない印象。

あとは〈9番〉ですかね、マーラーの場合は。僕の〈9番〉はあまり感心しないレコードが出てるものですからね、やり直したいんですが・・・。
あれも演奏会のライヴ・レコーディングだったのです。
いや、もちろん、ライヴといったって、演奏さえ良けりゃいいんですがね。ちょっと、能力的に・・・フィナーレなんか、もっと上手くやれたはずなんだ。
やっぱりあの頃、東京でやったときは、うまく行ったんですけれどね、あのフィナーレがね。
非常にテンポが遅いものですからね、あのフィナーレは。遅いテンポで最後までやらなきゃいけない。それが、途中で速くなってしまった・・・。いや、速くなったんじゃなく、速くしちゃったんですな。やっぱり、不安なんですね、ひどく、お終いの方が・・・。特にスコアの最後の1ページが問題なのです。アダージッシモ(Adagissimo)っていう、普通ならいちばん遅い方の指示で始まるのに、それから更に、何段階も遅くするように書いてある(笑)。
あの〈9番〉の終わりというのは、なるほど、あのとおりでいいのだと思います。えんえんと同じ音で、高い(音の)楽器だけで残って、まさにersterbend(死んでゆくように)なわけだ。ほとんど動きがなくて、そのままいって、それでスッとなくなるでしょ。
あんなとこで、テレてテンポが速くなっちゃ、具合が悪いわけです。まあ(あのレコードは)欠点が多くて申し訳ないんですけどね。そのうちに再録音しようと考えてます・・・。

~同上書P349-350

朝比奈隆が、徹底的な自己批判精神の持ち主であることがこの言からわかる。
御大が同じ曲を何度も繰り返し演奏したのには、まさに「愚直に」という精神の発露からだ。一方で、朝比奈の真面目でありながら、時折弱音ともとれるありのままの心情が垣間見られ、それがまた何とも安心なのである。それゆえに、彼の残した唯一の〈9番〉は、本人が何と言おうが、人間味に溢れ、とても意味深い。
朝比奈は、その後、結局〈9番〉を再録音することはなかった。

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