ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管 ベートーヴェン第9番「合唱」(1981.1&2録音)を聴いて思ふ

構想当初は別々の2つの作品(交響作品と合唱作品)だったという説がある。
準備と推敲を重ねるうちに、2つが一つに統合されていったのだと。

当時も今も、それは奇蹟の音楽体験の一つだろう。
すべては終楽章に合唱をおいたこと、そして、その歌が、シラーの頌歌をテクストに、人類の歓喜を喚起するものであったという普遍性によるところが大きい。もし仮に、それがベートーヴェンの不本意な、想像力と構成力に窮しての苦肉の策であったとしても、だ。

・・・作曲者自身が全体の統括をした。つまり彼は指揮を採る元帥の脇に立ち、各テンポの入りを自分のオリジナル・スコアを見ながら決定したが、というのは、それ以上の関わりを残念ながら補聴器の状態が彼には許さなかったからである。・・・歌唱パートに関しては少なくとも決して十分には完全ではなかった上演だが、格別な難しさにあって3回の練習も十分ではなく、それゆえに堂々たるパワー全開も、またしかるべき光と影の配分についても、音程の完全な確実性、より繊細な色合い、ニュアンス豊かな演奏についても、そもそも問題外である。それにも拘らず印象は筆舌に尽しがたく偉大かつすばらしく、歓呼の喝采が熱狂的に、崇高なる巨匠に胸の奥底から払われ、その汲めども尽きない才能は私たちに新しい世界を開き、聖なる芸術の、決して耳にしたことのない、予想だにしたことのない、奇跡の神秘を顕わにした。・・・
(1824年7月1日付、「総合音楽新聞」批評)
大崎滋生著「ベートーヴェン 完全詳細年譜」(春秋社)P461-463

確かに当時のオーケストラの演奏力は問題外だったのだと思う。
実際、初演直後、ベートーヴェンは弟子のシンドラーに次のように怒りをぶつけている。

演奏会で君に悪いところがあったと責めているのではありません。しかし、無思慮と勝手な行為のため、たくさんの事が駄目になってしまった。いつかは君のために大変な不幸がわたしの身にふりかかって来はせぬかと、君にある不安をずっと持ってきたのです。塞き止められた水門は時として突然破れるものです。
(1824年5月7日の直後、アントン・フェリックス・シンドラー宛)
小松雄一郎編訳「新編ベートーヴェンの手紙(下)」(岩波文庫)P139

しかし、それならば、現代の機能性と音楽性の充実した管弦楽と合唱、歌手の力量をもってすれば、より完全な形を造り、聴衆を感動と歓喜に巻き込むエネルギーと力は間違いなくあるはずだ。

クルト・ザンデルリンクの遺したベートーヴェンの第九。
これほど正統的で、これほど奇を衒わない、しかし、崇高さと神秘に溢れる第九を僕は聴いたことがない。

・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」(1981.1.17&2.4, 6録音)
シーラ・アームストロング(ソプラノ)
リンダ・フィニー(アルト)
ロバート・ティアー(テノール)
ジョン・トムリンソン(バス)
フィルハーモニア合唱団(合唱指揮:ハインツ・メンデ)
クルト・ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管弦楽団

第1楽章から第3楽章までがアビーロード・スタジオでの録音、第4楽章は、2週間余りをおいてキングズウェイ・ホールでの録音である。
ザンデルリンクの演奏の印象は明朗快活。第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ,ウン・ポコ・マエストーソ冒頭から混沌というよりすでに調和の色合いに溢れる。そして、音楽は喜びに満ちている。第2楽章モルト・ヴィヴァーチェの目くるめく祝祭的歓喜。音楽の先進性はザンデルリンクの真骨頂。また、音量を極力抑えて奏される第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレの静かな、清冽な音楽が心に沁みる。
さらには、轟く第4楽章プレスト冒頭の鮮烈!
低弦による「歓喜の主題」は軽快で文字通り歓喜の極み。レチタティーヴォ前のプレスト再現直前の、念を押すような音調がニュアンスに富み、新鮮。また、声楽が入ってからの音楽は、何と開放的で明るいのだろう。

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