補筆完成版にして作曲者の真意が十分に伝わる名演奏。
音楽というものが、創造者のそのとき心境がそのまま反映される、情感や思考を伴なった人為的なものなんだとあらためて知る。少なくともグスタフ・マーラーにあっては自作を指揮、演奏するごとに手を入れ、納得行くまで改訂を施していったことを考えると、創造作業というのは、いつまでも完成を見ない、終わりのない旅だといえまいか。
アルマとの破局を迎えつつあった当時の苦悩。僕にはそれさえも包括して、すべてを受け入れんとする情感、慈愛が込められた音楽のように聞こえる。
アルマは、書簡集をまとめるにあたって序文にこう書いた。
マーラーは今や音楽にまったく新たな価値を発見した、と私には思われてならない。すなわちそれは倫理的—神秘的な人間の発見であった。これまで、愛、戦、宗教、自然、人間性を表現内容としていた音楽に、今や、この地球上にあって救われずに宇宙の中を堂々巡りする孤独な人間というものが加えられたのだ。それこそまさにあの、黄昏ゆく緑のただ中に沈思黙考して父を待ちわびる、忘れられた子供の姿に他ならなかった。彼は人生に寄せるドストイェフスキイの問いを、音楽に奏でたのである。「よそに悩み苦しむ者がいるのに、どうして私が幸せでいられようか?」・・・彼が何より愛読したマラマゾフの兄弟の一節である。
(1924年版書簡集への序文)
~ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)
果たして時代錯誤な、今となってはその厭世的な思想に違和感を覚えなくもないが、アルマの思いはその通りだったのだろうと思う。それにしてもおそらくすでにワーグナーの「再生論」の影響を真っ向から受けていた時期だろうゆえ、交響曲第10番に(未完成ながら)垣間見える、輪廻転生に抗いつつも、その廻りの中にあらねばならない、まさに死の恐怖と孤独に苛まれつつ彼はアルマへの思いを複雑にし、この音楽を五線紙に認めたのだろう。
ミヒャエル・ギーレンの解釈は、実に即物的(?)だ。余分な情感が入らない分、透明感が増し、ますます純白な、空(くう)のようなマーラーの思念が手に取るようにわかる演奏になっている。
・マーラー:交響曲第10番嬰ヘ長調(デリック・クック補筆完成版)
ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団(2005.3.17-19録音)
静謐な、否、思念こもり恐怖さえ煽る終楽章の強靭な音響がギーレンのマーラーのすべてを支える。冒頭の大太鼓の不気味な音は試練の表れなのかどうなのか。23分超の、孤高の音楽こそクックの秀逸な補筆がものを言う。
※2014年7月8日の記事