ロジェストヴェンスキー指揮読売日本交響楽団 ブルックナー第5番(シャルク改訂版)(2017.5.19Live)

「改訂版」は罪悪。何故なら、弟子達が勝手にカットしたりオーケストレイションに手を加えてワーグナー風の化粧をしてしまったからだ。それをブルックナー本来の姿に戻した原典版こそが正しい」というのが、これまでの一般的な考え方だ。10年前だったら、この単純な論法で皆が納得していたのである。
金子建志著「こだわり派のための名曲徹底分析—ブルックナーの交響曲」(音楽之友社)P110

金子建志さんの25年前のブルックナー演奏論にはそうある。
常識というものの経年変化を強く思う。
何であれ、この世に存在するものはすべて意味があるのではないか。芸術作品においても、仮にそれが贋作であれ、似非作であれ、人々に喜びをもたらすなら価値は大いにあるのではないか。今、僕はそんなことを考える。

いつぞや聴いた、シモーネ・ヤング指揮新日本フィルによるブルックナーの交響曲第4番(第1稿)の演奏に、僕はとても感動した。荒削りといえばそう、赤裸々ともいえる、しかし、あの、時々音が無条理に分断される支離滅裂な方法に、実はロジカルな、感応する人には感動を与える作曲家の独自の創意に天才を見た。さすがにあれは当時の人たちには荷が重かっただろう、それゆえに、ブルックナーのたび重なる改作は正解だったといえるのかも。本人が不本意だったのかそうでなかったのか、そんなことは今さら明らかにしようのないことだ。

あるいはまた、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮読響による定期演奏会での渾身の交響曲第5番(シャルク版)にも僕は一層感動した。あの夜の芸術劇場は実に熱かった。音が空気の振動であり、音楽が文字通り気に影響を与える芸術であることが身に沁みた。

あの日の録音を聴いた。

・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(フランツ・シャルク改訂版)
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮読売日本交響楽団(2017.5.19Live)

あらためて壮大な音楽に、そして艶やかな堂々たる演奏に感心するも、あの日の感動には及ばなかった。音楽が生き物であり、また、生ものであることを思う。

それにしても予想以上にテンポの遅い演奏に、誰もが息を凝らしてあの場にいた、あの空気感は特別だ。そして、一切弛緩のない流れに巨匠ロジェストヴェンスキーの老練の棒と洗練された解釈を思った(時に旋律をソロで奏させる粋な計らい)。終楽章最後の和音が鳴り切った直後の、快哉を叫ぶが如く指揮棒で指揮台を叩く音もきちんと入っているが、指揮者にしてみても大いに納得のゆく快演だったと見える。これを機に改訂版の再評価が高まるのを願うばかりだが、その後、(残念ながら)コンサートなどで採り上げられる気配は今のところない。

(1865年5月)18日、とうとうブルックナーは憧れの巨匠ヴァーグナーと会った。「大家の中の大家」を前にして、ブルックナーはひたすら恐縮していた。「第一交響曲」を見せるように求められても、彼にはその勇気がなかった。以後、ブルックナーはヴァーグナーへの敬愛を限りなく深めてゆくが、それは神格化といってよいほどだった。
土田英三郎「カラー版 作曲家の生涯 ブルックナー」(新潮文庫)P81

アントン・ブルックナーの純真無垢な姿を思う。

ヴァーグナーとの会見は82年の7月が最後となった。ブルックナーは「パルジファル」の初演を見るためにバイロイトへ来ていた。ヴァーグナーはこの時、ブルックナーの手を取りながら彼の全作品の演奏を約束してくれた。感激のあまりブルックナーは跪いて、老大家の手に接吻して言った。「おお先生、あなたを崇拝します!」ヴァーグナーの「まあ、落ち着いて、ブルックナー、おやすみ!」が彼に対する最後の言葉となった。
~同上書P143

弟子たちの助言すらも逐一すべて耳を傾けたブルックナーの(ある意味)素直さに僕は感嘆する。フランツ・シャルクとの合作(?)である交響曲第5番は実に素晴らしい。

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