エーリヒ・クライバー指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管 ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1953.9.28録音)ほか

20世紀前半のドイツ。
政治的には不穏な時期、というより大衆が新たな政権に期待し、まるでバブル期のように強気で、威風堂々たる時期だった。そして、誰しもモーレツに働いたであろう時代。

エーリヒは世界中を股にかけての楽旅を死ぬまで続け、家族の生活をずたずたにした。子供たちがごく普通の家族の団欒や友だちとの長い付き合いをし、一貫して同じ学校で教育を受けることはかなわなかった。父は息子が絶えざる移住のせいでストレスにさらされるのではないかと、将来のことをたえず心配していた。「パイ」(カルロスの幼少時代のニックネーム)は1935年に大西洋を渡って、ママの家族のところへ同行を許された。
戦争の気配はまだなかった。家族がザルツブルク近郊のモーント湖の新しい住みかに引っ越した時、「パイ」はまだ5歳にもなっていなかった。カルロスは絵のような自然の風景を愛した。子供たちが父の散歩のお供ができる年頃になって一緒に出かける時、父は楽譜を手にしていた。子供たちは父が楽譜に目を通しながら歩いている姿に畏敬の念を抱きながら、黙って父の前を歩んで行った。「近づき過ぎないよう距離をおいて、しかも楽譜に集中しているため、子供たちに何が起るか気づかないはずだが、なにかあるとすぐ楽譜から目を上げ、息子をちょっとした事故から救った。

アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上」(音楽之友社)P29

いわばカルロスの原体験としての大自然との対峙と、父との無言の対話こそ何かを感じ取る、その感性に磨きをかけるきっかけのようなものだったのだろうと想像する。
それに、父エーリヒは多少独裁的なところもあったという。

ブエノスアイレス生まれのバス歌手カルロス・フェラーはこの若者が控えめなのは、父の監視下にあるからだと思っていた。フェラーはエーリヒの推輓で、1942年にテアトロ・コロンに採用され、彼をとても尊敬していた。フェラーはエーリヒの印象をこう記している、「彼は少しばかり独裁的なところがあった。とても厳しく、率直な父親だった。カルロスはこう言ったことがある、自分は父になにか演奏して見せたが、それが父の気に入らなかった。それで1947年以前に音楽にそれほど集中的に取り組まなくなってしまった」。
~同上書P41

その晩年、極度にレパートリーを絞り込み、その上、指揮する機会を滅し、消えるようにそっと亡くなっていったカルロス・クライバーの内なる恐れは、父に対する畏怖と自身の深層に根付いていった自己不信の結果だったのだろうか。アルフレッド・アドラーは人生の課題を「自己受容・他者信頼・他者貢献」と定義するが、カルロスは父を超えるどころか自分自身さえ受け容れ、また超えることができなかったのである。

エーリヒ・クライバーのベートーヴェン。
すなわちそれは僕の原体験であり、また原点でもある。

・ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
エーリヒ・クライバー指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(1953.9.28録音)

推進力に富む名演奏。モノラル録音ながらレコード史に燦然と輝く名盤。
全編通じ颯爽とした音調に感じ取れるのは大自然への慈愛だ(大自然そのものといえる)。エーリヒ・クライバーの音楽創造の源にあるのは「無為にして為さざるはなし」。ひたすら音楽に向かう、そこにはベートーヴェンへの敬愛がある。個人的には終楽章の大いなる牧歌に愛着を思う。

一方、息子のカルロス。
果して、カルロス・クライバーの「田園」はいかに?
(突如リリースされた)エーリヒから30年後のライヴ音源を久しぶりに聴いた。

・ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管弦楽団(1983.11.7Live)

冒頭適度な軽快さをもって音楽が始まるが、一気にテンポを速め、史上最速と思えるほどの気狂いじみた(?)スピードでの、颯爽としたというより忙しない第1楽章「田園に到着の際、人間にわき起こる心地よい、陽気な気分」にあらためて吃驚する。そういえば、その昔、少年の頃、フルトヴェングラーの「田園」を愛聴していた僕にとってエーリヒの快速の第1楽章があまりに軽く聴こえ、失望したことを思い出す。ただし、それは若気の至り。後年になってきちんと聴いてみて、大変な名演奏であることを発見した。
何より第2楽章「小川沿いの情景」がとても素晴らしい。
ただし、それ以外はエーリヒの後塵を拝する(おそらく会場で実演に触れていればそんなことはないのではと思われるが)。

だれも予期していなかったことが突然起った。1956年1月27日、つまりモーツァルト生誕200周年のまさにその日に、エーリヒはチューリヒで死んだ。この記念の日に指揮台に立つことを肯んじない著名な指揮者が何人かいたが、彼もその一人だった。ホテル「ドルダー」のフロア・ボーイは、バス・ルームで死んでいる彼を見つけた。死因は心筋梗塞だった。エーリヒはその時66歳、指揮者として脂の乗り切った時期だった。
~同上書P78

カルロスにとって大変なショックだったらしい。

カルロスは父を失った。個人的な接触も、個人的な話し合いも、激励も忠告も。しかし父は彼の記憶の中に生きているだけでなく、その後の彼の指揮活動の中にも見いだせる。エーリヒはそれだけでなく息子に計り知れない価値のある遺産、楽譜、それも自らの手によるさまざまな書込みのある楽譜、それに膨大な録音を残した。
~同上書P79

当然細部の作りは異なるが、やはり父子だけある、カルロスが父の解釈・造形を参考にしただろうことは歴然だ。

カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管 ベートーヴェン「田園」(1983.11.7Live)を聴いて思ふ エーリヒ・クライバー指揮ACOのベートーヴェン交響曲第5番&第6番(1953.9録音)を聴いて思ふ エーリヒ・クライバー指揮ACOのベートーヴェン交響曲第5番&第6番(1953.9録音)を聴いて思ふ

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