音のない世界

beethoven_heidscheck_30.jpgいつも「早わかりクラシック音楽講座」に参加していただいているC君のお宅で「サロン・ド・チシキ」という会が催された。要は、気の許せる仲間たち(といってもお互いは初対面という場合も多いが)が数人集まってC君おススメのDVDを観ながら飲み語るというもの。3月に一度お邪魔して幾つか映像を観たことは前にも書いた。14:00からのスタートということだったが、結局参加予定者が揃ったのは17:30頃。3時間ほどはフィッシュリ&ヴァイスの「ゆずれない事」、「正しい方向」など各々30分ほどのシュールなDVDを観て時間を潰した。まぁこのC邸はなかなか面白いマニアックな音盤や書籍がたくさんあり、こういうものに囲まれていると何日も過ごせるのではないかと思わせるほどの充実ぶりで、よくもこんな代物をわざわざ探し出して手に入れたものだといつも感心させられてしまう。

今日観たメインのビデオ。
ニコラ・フィリベール「音のない世界で」

1992年にフランスで制作された聾者のドキュメンタリー映画。もともとこの映画のことを聞いた時、「耳の聴こえない人たちの世界をその立場に立って制作した映画」なのかと勘違いしていた。あくまでインタビューと彼らの日常生活を自然に撮影したものなのだが、意味深い発言が多々ありとても勉強になった。聾者のコミュニケーションの術はほとんどが手話であるが、健常者の場合、言語の壁という問題が存在するのに対して、国によって手話の表現が相違するものの、手話では2日もあれば中国人、アメリカ人、日本人、フランス人などと会話が可能になるという。やはり、前から僕が考えているように、目が見えること、耳が聴こえることで人間は「自」と「他」を区別認識し、それがある意味コミュニケーションの障害になっているといってしまっていいのかもしれないとより一層実感させられた。例えば、先天的に耳が聴こえない方の場合、健常者は好意で補聴器の助けを借りることをすすめるが、逆に補聴器を通しての音が不自然で耐えられないということも起こるらしい。語弊がある言い方かもしれないが、やっぱり人間はその置かれている状況が一番自然であるということか。立場が違い境遇の違う人間が勝手な判断で良かれと思ってやる行為ほど不自然なものはないのかもしれない。本当の意味で共感したり、相手を思いやるのはなかなか難しい。

雨降る午前、銀座でアポイントがあった。先方のチェックミスで多少時間のズレがあったが、1時間ほどミーティング。往復の車内で例の「ドビュッシー」を読む。面白い。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111
エリック・ハイドシェック(ピアノ)

パリ音楽院在学中のドビュッシーの1876年の課題がベートーヴェンの最後のソナタの第1楽章であったという。ドビュッシーのピアノ演奏は興味深いものだったらしいが、トリルが苦手で(それに彼はベートーヴェンが大嫌いだったらしい)、結局この年は何の賞もとれなかった。僕はソナタ形式というきっちりとした構成をベースにしたベートーヴェンの楽曲が好きだ。そして、1822年頃に作曲されたこのソナタを書いていた頃のベートーヴェンは既に聾者であった。耳の聴こえない状況になったからこそ心の内に響く音を自他の区別なく創作できたのだと思えるこの音楽は「神の境地」に限りなく近づいている。特に第2楽章は聴けば聴くほど奥深い・・・。

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