音のない世界~フォーレ

faure_quartett.jpg今日も朝から寒い。昨日の「サロン・ド・チシキ」のあとの雑談で予防医学の話題になり、たまたま僕の友人で医者でもあるIさんが居合わせたものだから、話が膨らみ、参加したみんなにとってとても意義深い会合になった。その中で「糖尿病」に話が及び、Iさんから「結論から言えば日頃の運動が最も重要だ(日々の食事のコントロールなども当然重要)」ということを教わった。散歩など軽い運動を継続的に続けることなのだと(それと果物は夜に食べないで必ず朝に食べることが大事なのだと)。何だ、すでに実践していることだと我ながら大したものだと感心したが、あまり過信するのも良くないだろうと、朝食にいつもの果物(今日はグレープフルーツにバナナ)ヨーグルトがけを食した。そして午後は新宿や大久保界隈を歩いてみた(Iさんからお借りしたエリエス・ブック・コンサルティング土井代表のCDを聴きながら)。

ここ数日は世紀末フランス音楽、例えばドビュッシー、ラヴェル、フォーレ、そしてショーソンなどをよく聴いている。しつこいようだが、先日の「加納裕生野ピアノ・リサイタル」がきっかけとなって改めてドビュッシーの洗練された「新しさ」に気づき、暇な時間を見つけては書籍を読んだり、音盤に耳を傾けたりしている。19世紀末のヨーロッパのデカダンな匂いを伴った響きが何ともいえず、はまりこんでしまっているのだ。そんなこんなで、久しぶりにフォーレでも聴いてみようかと音盤をさぐっているうち、彼の書いた晩年の名作のCD(弦楽四重奏曲作品121とピアノ三重奏曲作品120が収められている)を見つけ出し、聴いてみた。彼もベートーヴェン同様、壮年期以降難聴に苦しみ、ほとんどまともに音が聴こえない状態で至高の音楽を創出した。なぜにこうも「音のない世界」に生きる人々の創った芸術作品はこんなにも感動的で奥深いのか。沈潜とした趣の中に「人間存在の全て」を包括する「魂の訴え」が聴いてとれるところが絶美だ。

フォーレ:弦楽四重奏曲ホ短調作品121
パレナン四重奏団

いつだったかガブリエル・フォーレの音楽に心酔し、集中的に聴いていた時期がある。そういう時期でもこの音盤が手に入らず、最晩年のフォーレの世界に想いを馳せながら彼の残したいくつかの傑作をたびたび耳にしていたことを思い出す。そんなある時、このCDが再発されるという広告を見つけ、早速購入した代物。おそらく30歳前後の頃(まだまだ青臭い頃だった)だったと記憶している。プレーヤーにかけるなり、深遠な世界に誘われ、ますますフォーレのファンになった。やっぱり僕は、地に足のついたどっしりとした枠組みの中に、得もいわれぬ「心の叫び」を表現したフォーレの音楽が好きだ。こんなに切なく愛らしい愁いを帯びた音楽はなかなかないと思う。

続いて同じCDからもう一つの名作。

フォーレ:ピアノ三重奏曲ニ短調作品120
ジャン=フィリップ・コラール(ピアノ)
オーギュスタン・デュメイ(ヴァイオリン)
フレデリック・ロデオン(チェロ)

すでに30年も前の録音だが、音楽の瑞々しさに加え、当時のフランスを代表する3人の音楽家たちが集まって火花を散らしたこの録音も素晴らしい。先述の弦楽四重奏に比べるとより音楽に活気があり、エネルギーを感じる。やっぱりフォーレはピアノの作曲家なのだろう。

ふと気がついたのだが、今日はフォーレの誕生日だ。偶然とはいえこの事実に何だかとても感動した。

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