デニス・ラッセル・デイヴィス&読響の「第9交響曲」

beethoven_9_20131218この冬一番の寒さだろうか。凍えるような空気とほとんど霙に近い雨粒と・・・。
戸外の様相とは正反対の熱狂的祝祭空間。日本人はどうしてこれほどまでに「第9交響曲」を愛するのだろうか・・・。
第1楽章の出の音は強めか・・・。テンポは小気味良いもので、だれることなく前進的。フィナーレ冒頭プレストは音量を抑え、続く低弦のレチタティーヴォではっきり明確に、そして強く歌う、という解釈。コーダは猛烈なスピードで。そして、お決まりの怒涛の拍手喝采。

ほぼ満員の聴衆が歓喜する中、僕はずっと冷静だった。僕がベートーヴェン屈指の名作を嫌いなはずがない。でも、果たして楽聖はこの作品に本当に満足していたのだろうか?そんなことを考えていた。今夜の演奏の良し悪し、というより感想はもはやそっちのけ。いや、というよりデニス・ラッセル・デイヴィスの音楽は素晴らしかった。そのことは間違いない。それでも心ここに在らず、そんな状態だった。

第9の終楽章冒頭ではそれ以前の楽章が低弦によって否定される。続くバリトンのレチタティーヴォにおいては「このような調べではなく」と言葉によって明確に否定される。ソナタ形式の第1楽章、3部形式(スケルツォ)の第2楽章、変奏曲(アダージョ)である第3楽章、つまり、古典派の知を結集して創造された「形」を全否定し、ベートーヴェン独自の音楽を奏し、全人類がそもそも「ひとつである」ことを謳う時に、「言葉」を使ったことは正しかったのかどうか。音楽はボーダーレスだ。しかし、言葉は違う。

作品125を書き上げた以降、ベートーヴェンはやはり苦悩したのでは?完成ならなかった第10交響曲はおそらく純粋器楽によるものだろう。後期の弦楽四重奏も、あるいはピアノ・ソナタも死に近づくにつれより研ぎ澄まされ、より簡潔になってゆく様を鑑みると、「第9交響曲」は楽聖の到達した答でなかったということか・・・。

読売日本交響楽団
第566回サントリーホール名曲シリーズ
2013年12月18日(水)19:00開演
サントリーホール
ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」
木下美穂子(ソプラノ)
林美智子(メゾ・ソプラノ)
高橋淳(テノール)
与那城敬(バリトン)
三澤洋史(合唱指揮)
新国立劇場合唱団
ダニエル・ゲーデ(コンサートマスター)
デニス・ラッセル・デイヴィス指揮読売日本交響楽団

第9交響曲の演奏はとても難しいだろうと想像する。どんな解釈だろうと最後の歓喜を迎える頃、観衆を熱狂の坩堝に巻き込むことは容易いことだ。でも、言葉の裏にある真意、あるいは音楽の背景に隠された想い、そういったものをきちんと読み取り、それをまたきちんと音化することは決して簡単なことではない。

ところで、フィナーレでは打楽器(大太鼓、シンバル、トライアングル)が追加されるが、「歓喜の歌」を聴きながら僕は妄想していた(笑)。太鼓は一、シンバルは二、トライアングルは三。何だか「三位一体」を暗示するのか・・・、おそらく考え過ぎかな。
古より「主体」を曖昧にしてきた「私たち」には、全体をひとつに包み込むという習慣が根付いている。日本人がこの曲にシンパシーを覚える理由はそういうところにもあるのかも。

 


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