マタチッチ指揮N響のブルックナー交響曲第8番(1984.3.7Live)を聴いて思ふ

bruckner_8_matacic_nhk_1984215ロヴロ・フォン・マタチッチのブルックナーというのは神格化されたひとつだと思うが、録音で聴く限りその演奏はテンポの激しい揺れを伴った極めて人間的なものであり、何度も繰り返し聴くのには少々しんどい、そういう印象を僕たちに与えるものだとずっと思っていた。
残念ながら、僕はマタチッチの実演を聴かなかった。最後の来日当時、余裕のない学生だったこともある。あるいはあの頃は、どちらかというとロック音楽に凝っていた時期でもあった。いずれにせよ、貴重な、一世一代の瞬間を見逃してしまったということには違いない。痛恨事である。

第8交響曲初演の際、エドゥアルト・ハンスリックが残した評が真に興味深い。

あとに続くすべては、それだけにいっそう崇高である。アダージョでは、まさに「万物をいつくしむ人類の御父が測りがたいまでにゆたかな恩寵のうちにいます」のを観るのだ!アダージョはまさに28分間も、つまりほぼベートーベンの交響曲1曲ほどの長さつづくので、私たちはこうした類い稀な光景にふさわしい時間辛抱するのである。
さて、フィナーレは、そのバロックな諸主題や混乱した作り方、それに非人間的な絶え間ない轟音によって、まさに没趣味の典型にほかならぬものと私たちには思えるのだが、プログラムによれば「神的なるものに仕える英雄主義」なのだ!中でたからかにひびくトランペットの合図は「永遠なる神の真理の告げ手、神の意志の使者」である。
エドゥアルト・ハンスリック/海老沢敏訳「第8交響曲」の初演に際して
「音楽の手帖 ブルックナー」(青土社)P123

アンチ・ワーグナー(すなわちアンチ・ブルックナー)派のハンスリックでさえ認めざるを得なかった大成功。
この、初演者ハンス・リヒターの演奏よりもおそらく一層動的であろうマタチッチのアダージョ楽章と終楽章を聴いて、いわゆる宗教や聖なるものとかけ離れた人間ドラマの極致がここに在ると直感した。押しては引き、引いては押す、見事な音の流れに乗るアダージョの柔らかさに感動。しかし、この大演奏の白眉は何と言っても最後の楽章だ。

・ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮NHK交響楽団(1984.3.7Live)

終楽章第3主題で一気にテンポを速め、そしてその後に続く展開部からのテンポ・ダウンの妙。このテンポの揺れ動く解釈がブルックナーの音楽を壊さないのは、呼吸が堂に入っているからだろう。何という深さ!そして、恐るべきは全楽章のあらゆる主題が一度に積み重ねられてゆくコーダの大伽藍。ここでもマタチッチは終結に向け老体に鞭打ち走るが、壊すどころかブルックナーに絶妙なる美しい光を当てる。
もはや録音には入り切らない芸術がここにある。当日NHKホールにいた聴衆だけが体感し得た至高のひととき。最後の和音が鳴り響いた後に起こる怒涛の拍手喝采がそのことを物語る。

なるほど、人類が祝福されし日のブルックナー演奏が悪かろうはずがない。

 

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