タチアナ・ニコラーエワ。
来日公演を待たずして急逝した彼女のバッハ演奏は、求道者のそれのようだ。
晩年に録音した「フーガの技法」ほかを収録したアルバムを聴けばそのことはわかる。ここで奏でられる音楽の静謐さ、同時に神々しさ。
バッハの音楽を享受するには、受け取る側の器が重要になる。
ある程度の人生経験を経て耳にする「フーガの技法」は、宇宙的規模の鳴動を喚起する。ここには智慧と慈悲がある。人生の、酸いも甘いも知った中で、複数の旋律が同時に鳴り響き、徐々に発展、そして見事に調和する様に、僕たち人間が本来あるべき姿が投影される。
知性で捉えよという。
また、悟性でも見よという。
もちろん、感性においてもだ。
すべての感覚を駆使して、音楽に臨むとき、世界は必ず開かれる。
あまりに美しい音の綴れ織りに、僕は言葉を失う。
「音楽の捧げもの」からのリチェルカーレから人間技を超えた無心の境地。あまりの透明感に驚愕するくらい。晩年のバッハの心境と、(意識せず)晩年のニコラーエワの心境の掛け算とでもいおうか、あらゆる音楽の源となるべき「空(くう)」の音。恐れ入る。「4つのデュエット」も、一切のぶれなく、ただひたすらにバッハの音を具現化する試み。しかし、やっぱり恐るべきは「フーガの技法」。何度聴いても自分のものにし得ない深遠さ、哲学性。宗教的なものを超えた、まるで真我の顕現のような崇高さ。
バッハは美しい。