
小雨が降ったのか、地面が濡れる。
朧月が美しい。
オンラインでもリアルでも、人と分かち合い、人の心に触れることの充実を思う。
それは、たぶん、他の何ものにも代え難い、人として生まれて来たゆえの喜びなのだと思う。
僕は日々音楽を堪能する。
音盤であれ実演であれ、やはり音に触れる充実は、同じく何ものにも代え難い。
しかしながら、それは決して、人とのふれあいに敵うものではないだろう。
音楽の究極の形は、ひょっとすると鎮魂のための曲なのかもしれないと思った。
愛着を覚えない作曲家のものでも、鎮魂曲となると途端に心が鎮まる。
ヴェルディのような、まるでオペラティックなレクイエムでも、当然心は洗われる。ましてやフォーレのそれのように、「怒りの日」を欠いた形式のレクイエムとなるとなおさら心は静けさと癒しに包まれる。死というものの恐怖を反映した作品であっても、死が人間を安寧に導くという事実は何ら変わりないのかもしれぬ。
ドヴォルザークのレクイエムは、巷間有名なものとはいえないだろう。
いかにもドヴォルザークというスラヴ的な要素は僕にはほとんど聴きとれない。
あくまでも、死せるものの魂を癒そうとする聖なる力に漲る音の大伽藍が聳えるごとし。
しかも、イシュトヴァン・ケルテスの、我欲を嫌った、純粋な音楽を奏でようとする姿勢というか、そこには作曲者への献身しか感じさせない指揮が僕にはとても神々しく思えるのだ。
ところで、ブラームスとドヴォルザークの死生観の違いが興味深い。
二人は互いに生涯変わらぬ友情で結ばれたが、信仰については全く異なっていた。敬虔なカトリック教徒だったドヴォルジャークにとっては、ブラームスは無信仰の人間と思えたらしく、「あれほどの人なのに、あれほどの魂の持ち主なのに、何も信仰していないとは!」と、啞然とした様子で語ったという逸話が残されている。
~井上太郎著「レクィエムの歴史 死と音楽との対話」(平凡社)P231
朧月夜の鎮魂曲。
あまりに美しい。