マルツィ フリッチャイ指揮RIAS響 ドヴォルザーク ヴァイオリン協奏曲イ短調作品53(1953.6録音)

ヨアヒムによって委嘱されたもののヨアヒムには不評だったといわれるドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲。決して有名とは言えない作品だが、さすがにメロディスト、ドヴォルザークの作曲ゆえ、ボヘミア的哀愁と音楽をする喜びに溢れる逸品だ。

こういう作品は繰り返し聴くことだ。

晩年のブラームスとヨアヒムの対話が興味深い。

「・・・今になってやっとわかったよ、君がいつも、この点についてはなぜ口を閉ざしていたのか、私に対してもね。我々は今や、聖なる地に踏み込みつつある。だがもし、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンが君より霊感を与えられていると感じるなら、私についてはどう思う? 若い頃は作曲も手掛けたが、君と親密につき合うようになってから、久しいことその道はあきらめてしまった。君の霊感は私のものよりはるかに高次元のものだし、技巧の面でも同様で、いくら努力したところで、無駄に思えた。自作の《ハンガリア協奏曲》ですら無視される一方で、じきに忘れられようとしているが、一方で君の作品は年毎に認められつつある」。
「それはその通りだ、ヨーゼフ。だがあと半世紀経たなければ、音楽界で私が占めるべき真の位置は見えてこない。ある作曲家が他の作曲家よりなぜ霊感が多く与えられているかを説明するのは、無理とは言わないまでも難しい。だがヨーゼフ、君のこれまでの問題点を一つ指摘できる—公的な職務や名誉職があまりにも多過ぎる。ベルリン王立音楽学校長の上に、ヴァイオリン独奏や弦楽四重奏団の演奏に対する要望はすさまじい。教職に大変な時間を割き、名誉職絡みの多くの会議に時間を食われ、助言を求める作曲家からのヴァイオリン作品の手稿譜であふれ返っている—私の目に入ってきた範囲で、手に負えないほど厄介な君の不自由さをほんの少し挙げただけだが。この種のことが皆作曲を妨げる。価値ある音楽を書きたいと望む作曲家は、すべての時間とエネルギーを、この仕事にのみ捧げねばならない。ヨーゼフ、私だって君みたいにひっきりなしに人の求めに応じていたら、聴くに値するものは何も生み出すことはできない」。

アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P104-106

創造行為は聖なる業だとブラームスはいうのであろう。俗世間にどっぷり浸りながら普遍的な音楽作品を創造することなど不可能だと。
確かにヨアヒムは多忙だった。

アントニン・ドヴォルザークもヨアヒムの演奏に触発されかの協奏曲を生み出し、ヨアヒムに献呈するも、当のヨアヒムは多忙のせいかほとんど無視したようだ。そういう作品に限って時間の経過が必要で、ある一定の時間を経れば必ず熟成されるのだろうと思う。

・ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲イ短調作品53(1879)
ヨハンナ・マルツィ(ヴァイオリン)
フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリンRIAS交響楽団(1953.6.10-12録音)

この頃のフリッチャイのドヴォルザークは劇的で推進力抜群のものと、一方で瑞々しい、女性性を前面に押し出した優美な解釈があって面白い。ヴァイオリン協奏曲は後者。それはたぶん独奏者がマルツィであることも要因の一つとして考えられる。ともかく独壇場ではなく、あくまでヴァイオリン独奏の伴奏者としてヴァイオリニストの奏でる音楽について行こうとするのが謙虚で素晴らしい。

第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ—クワジ・モデラートが俄然美しい。
冒頭、管弦楽による提示部からいかにもボヘミア風の主題が心に沁みる。すぐさま現れるマルツィの思いのこもったヴァイオリン独奏もドヴォルザークへのただならぬ愛情に満たされるようだ。

続く第2楽章アダージョ,マ・ノン・トロッポの抒情、主題はベートーヴェンの第2交響曲のラルゲット楽章に触発されたかのようにも思えるが気のせいか。

メロンの熟した甘み-ベートーヴェンのラルゲット メロンの熟した甘み-ベートーヴェンのラルゲット

そして、終楽章アレグロ・ジョコーソ,マ・ノン・トロッポの、決して下品に陥らない、高貴な弾ける喜び!!(これはもうヨハンナ・マルツィの独壇場!)

昭和の日、心静かにドヴォルザーク 昭和の日、心静かにドヴォルザーク

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む