80分近くに及ぶ堂々たる威容。音楽はあくまで淡々と進む。
その表現は、いわば無情。筆舌に尽くし難い「愛」があるといえばそれだ。
晩年のタチアナ・ニコラーエワの演奏は、見事に脱力の、音楽以外を感じさせない、没我の極致。冒頭アリアから襟を正させる完全なるバッハ。
バッハの音楽の天分は、その死後二世紀以上経っても驚異として立ちはだかっている。だがこの音楽家は、自分が凌駕する者のない天分の故に選び抜かれたとは信じなかった。ある学生にはこう語っている。「少し念を入れて練習するんだ。そうすればできるようになる。私と同じく両手に五本、健康な指がついているだろう」。
~パトリック・カヴァノー著/吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」(教文館)P24
真の天才は謙虚である。そして、人知れず努力をするのだ。
その天分の秘密を問われても、こう答えるに止めた。「私は働くようにできているんです。私と同じくこつこつやれば、同じようにうまくいきますよ」。音楽の世界で、バッハの勤勉さに匹敵する者がいたかどうかは疑わしい。
~同上書P24
バッハが勤勉であることの背景には礼があり、理があった。
彼は神に生涯を捧げ、尽くそうとしたのである。その創造物が人々に感動を与えないはずがない。
ニコラーエワはバッハへの献身を、おそらくその母性でもって応えようとしたのではないか。彼女のバッハにある親和力は、母の胎内にあるときの安心感に近いものがありそうだ。
・ヨハン・セバスティアン・バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988
タチアナ・ニコラーエワ(ピアノ)(1992.1.22&23録音)
ゆっくりと、滔々と流れる音楽に身を寄せる。
変奏ごとに熱を帯びるのかといえば、さにあらず。むしろ、時間の経過とともに音楽は透明度を一層増し、聴く者をあちらの世界へと誘ってくれる。
7分45秒に及ぶ第25変奏の、囁きかける哀しみはいかばかりか(祈りの鐘が静かに鳴る)。続く第26変奏も急激な陽転を排し、哀しみに後ろ髪を引かれるかのようにただひたすらに音楽を奏するという極み。そして、第27変奏の生命力、あるいは第28変奏曲の遊びの精神に喜びを思い、第29変奏の激しい打鍵にいよいよ目覚めよというバッハの魂の声を聴く。ついに、第30変奏クオドリベットにて音楽は頂点を迎えるが、ここでの解放の様は他の演奏を圧倒的に凌駕する。
再生のアリア・ダカーポが何と優しく響くことか。まるでニコラーエワの「白鳥の歌」の如し。