ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルのベートーヴェン交響曲第4番(1973.5.26Live)を聴いて思ふ

beethoven_4_mravinsky_tokyo1973223本当はもっと遅めのテンポで、浪漫的に揺れ動く重厚な解釈が好きなはずなのに、この人の演奏だけは別格。直線的で冷徹な意志と、それとは対照的に円を描くように内燃する激しいパッション。トスカニーニのそれとも異なる、言葉にし難い神宿る音楽。
研ぎ澄まされた鋼のようなムラヴィンスキーのベートーヴェンを耳にするたびに畏怖の念を覚える。実演で聴き得なかったことが何とも悔しい。

リヒテルの話に登場するムラヴィンスキーのことが面白い。

もちろんこのフーガ(バッハの平均律クラヴィーア曲集第2巻第20番イ短調)は、ショスタコーヴィチやバルトークなどを指揮するときのエフゲニー・ムラヴィンスキーを意味している。これは厳しいムラヴィンスキーだ。だが違った面も現われている。俗世間からの離脱、自然との融合だ。「森のささやき」の音楽には、まさにワーグナー的な森と呼ぶべきものがある。
ユーリー・ボリソフ著/宮澤淳一訳「リヒテルは語る」(ちくま学芸文庫)P253-254

森羅万象と見事に同期するムラヴィンスキーの「森のささやき」には、舞台を離れた純粋(絶対)管弦楽曲として彼が捉えているがゆえの魔法が存在する。同様に、ムラヴィンスキーのベートーヴェンの交響曲第4番にも、俗世間からの離脱、自然との融合が著しい。

・ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調作品60
・リャードフ:バーバ・ヤーガ作品56
・グラズノフ:「ライモンダ」第3幕への間奏曲
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1973.5.26Live)

ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの初来日公演(東京文化会館)の記録。
この壮絶な音楽について今さら僕が語ることは何もない。終演後の聴衆の熱狂と怒涛の拍手喝采を聴けば、その音楽の質が他を冠絶するものであったろうことがよくわかる。

5月26日、東京公演の初日、部屋の空気がびりびりするほど、マエストロの緊張感があたりに張りつめる。アレクサンドラ夫人も私も息をひそめていた。
会場の文化会館へ向かう車のなかでも、われわれは一言も発さない。楽屋は圧迫感で破裂しそうだ。
二ベルが鳴る。舞台へ進むムラヴィンスキーは、峻厳の気があたりを払い、鬼神も行く手を阻めないほどの気迫をまき散らした。
70年の大阪万博に来日するはずだった「幻の指揮者」ムラヴィンスキー、彼が舞台下手から登場すると、3年間待ちわびた聴衆の、声にならないどよめきが地鳴りのように会場を揺るがした。舞台の袖に控えていた私にさえ感じられたのだから、鋭敏なムラヴィンスキーはその胎動をどう受けとったか・・・。
河島みどり著「ムラヴィンスキーと私」(草思社)P176-177

河島みどりさんの回想に、40年以上前のその日その時、上野の会場に自分がまるで居合わせたかのような錯覚に襲われる。続いて河島さんは次のように書く。

ベートーヴェンの第4番とショスタコーヴィチの第5番は鋭いナイフで空気を切り裂くような、酷寒の空の凍てつく新月のような凄味があった。
~同上書P177

何という的を射た表現!

耳を聾する拍手のなか、突如、客席を突っきって一人の若者が舞台に駆け上がった。あっという間の出来事だった。握手を求めたその青年に、ムラヴィンスキーは指揮棒を渡した。歓声、絶叫、拍手、会場は沸きに沸いた。
「火のようにらんらんと燃える目を見たら、思わず指揮棒を渡してしまった」
マエストロの感想だった。
~同上書P177

セキュリティーのまだまだ甘かった古き良き時代のワン・シーン。素敵だ。

 

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