モデリング(ものまね)

beethoven3_5_uno_tokyopo.jpg自分の「個性」を獲得し伸ばしていく秘訣の第一は「ものまね」である。社会的学習理論では「モデリング」という。まずは「できる人」、「魅力的な人」の真似を徹底的にやってみることだ。
第6回「ES講座」を開催する。一人一人「大学時代に一番打ち込んだことは何か?」をPRしてもらう。さすがに1ヶ月半ほど「書くこと」を集中的にやってきたので、話の起承転結はまずまずだ。しかし、プレゼンテーションという観点からいうと、皆エネルギー不足である。頭で考えているうちは感動を伝えることはできない。一番打ち込んだことなんだから楽しくしゃべれと檄を飛ばす。4次面接まで残っているという学生もいる。集団ディスカッションで落ちたという学生もいる。悲喜交々。最終的には縁のあるところに落ち着くはずだ。焦らず着実に前を見て動くこと。そして「自問自答」することである。自分自身を掘り下げ、考え抜けば自ずと答えは出てくるものだ。

もう25年以上前、宇野功芳さんの文章に魅せられて、氏の音楽評論を片っ端から読み、彼の薦める音盤を聴き漁っていた時期がある。「フルトヴェングラーの名盤」というハードカバーもその頃手に入れた、ブルーノ・ワルターに関してもそうだ。あの頃の宇野節はとても刺激的で魅力的だった(どうも最近は角が取れたようで僕としては今一つの印象をうけてしまうがいかがだろうか)。宇野さんは感性の赴くままに思ったことを文章にしてつたえる天才であると僕は思う。
ところで、かつて一度だけ氏の指揮するベートーヴェンの実演をサントリーホールで聴いたことがある。確か第9番であった。しかし、感心しなかった。あれだけ評論に関しては感じたままを書く宇野さんがこと演奏に関してはとても左脳的で「作られた」感が否めないワザとらしいものであったのが逆に衝撃的であった。音のつくりが過去の巨匠の真似事に思える。その中で宇野節が炸裂はするものの音楽の流れが不自然なのである(指揮者・宇野ファンには怒られそうだが)。演奏行為は「プレゼンテーション」であり、いかに聴衆を感動させるかが重要である。その意味では「恣意的」なのが耳障りなのだ。とはいえ、僕は宇野ファンだ。書籍を出せば必ず読む。そして彼が録音したCDは全部所有し聴いてはいる。しかし、新星日響との第9以来彼の生演奏には接していない。

モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」序曲K.492
宇野功芳指揮東京フィルハーモニー交響楽団

明らかにクレンペラーの「フィガロ」序曲を参考にした解釈。もちろん、よりデフォルメして演奏しているので宇野節といえば宇野節だが。そういえば、あと1度実演を聴いたのを思い出した。1992年、新宿文化センターでのハイドシェックとの協演である。プログラムは、モーツァルトの「フィガロ」序曲、ピアノ協奏曲第27番、ベートーヴェンの「皇帝」であった(アンコールは何だったのか全く思い出せないが・・・)。このときの演奏はいずれも素晴らしかった。どちらかというと宇野さんがハイドシェックに振り回されていたのが印象的。解釈はこのCDとほぼ同じだが、「フィガロ」がとても面白く聴けたことを思い出す。彼はこの序曲を何度かレコーディングしているが、回を追うごとに自分のものになり、オリジナリティを発揮するようになっていると思う。「ものまね」は大事である。

⇒旧ブログへ


1 COMMENT

アレグロ・コン・ブリオ~第3章 » Blog Archive » 昔のマイスキーは良かった

[…] 以前モデリングについて書いたことがあるが(何と震災の2年前!)、何歳になっても謙虚に学ぶ姿勢を持つことは重要だとあらためて思った。特に人前で話をする仕事をしていると、ある意味マンネリ化する部分も出てくるようで、いろんな方の講義を聴講するだけで様々な気づきが得られる。ありがたいことである。 […]

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む