
音楽は、それが信仰の形であると理解できたとき、一層心に響く。
我々に分かっているのは、ブラームスが、マルティン・ルターによる聖書のドイツ語訳を、同じルターの著書「卓上語録」同様、熱心に学んだことである。興味深い著作「知られざるブラームス」の中で、ロバート・ヘイヴン・ショーフラーはこう言及している。「この大家の簡明な聖書知識は、合唱曲用の素晴らしいテクストはもとより、手紙に現れる、聖書の文体のある種の模倣にも見られる」。
ブラームスの多くの伝記作家は、彼が聖書の大変な愛読者であったことに同意している。この点を友人と話していて、ブラームスはこう述べたことがある。「世の人々は、我々北ドイツ人が日々聖書を切望し、聖書なしでは一日も終えられないということさえ知らない。書斎では、暗がりの中でも自分の聖書は見つけられる」。
~パトリック・カヴァノー著/吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」(教文館)P174
一般的な日本人には信じ難いキリスト教への帰依の心が読みとれるようだが、しかし、ブラームスは宗教そのものよりも聖書の内奥に感じられる宇宙の真理そのものに興味関心があったのではないかと僕には思われる。彼の数多の音楽の普遍性は、真理を追究した結果の、道理に適った、自然の摂理に見合ったものだからだろう。
例えば、ベートーヴェンのように陰陽相対を意識して(時を同じくして)書かれたであろう、「大学祝典序曲」の明朗さと「悲劇的序曲」の暗鬱たる厳しさよ。バルビローリ晩年の、ウィーン・フィルとの録音が素晴らしい。あるいは、神韻縹緲たる趣きの交響曲第3番は、オーケストラの自発性に任せた脱力かつ自然体の演奏で、険しくも気難しい表情のブラームスという一面が抜け切り、とても柔和で明朗な音調に傾斜する様が何とも美しい。
そして、自家薬籠中たるフィルハーモニア管とのエルガーの安寧。
エルガーは控え目な性格で、個人的なことを気軽に口にする人間ではなかった。彼の生きていた当時のエドワード朝では、イギリスのキリスト教信者は、いかに敬虔な信仰を持っていたとしても、それをまわりに向かって明言するような習慣はなかった。むしろ期待されたのは、生活や仕事の場で信仰者が自らの確信を表明することであり、この作曲家も音楽を通して、キリストにある信仰を最も良く示している。
~同上書P195
感情うねる「謎(エニグマ)」変奏曲。
サー・ジョンの解釈は、控えめで無口なエルガーの体現というより、もっと堂々とした、自発的で口数の多いその人の表現だ。感情の爆発に身を任せる(第14変奏曲)一方で、第9変奏「ニムロッド」のようなぶれない静けさに僕は感動を覚える。エドワード・エルガーに向き合うサー・ジョン・バルビローリは本気だ。